マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】外山恒一『さよなら、ブルーハーツ:パンク日記』(宝島社 1993年)

・1992年(平成4年)4月25日(土)~8月2日(日)
尾崎豊の死
・福岡市天神「親不孝通り」路上ライブ 特に土曜日の夜 警固公園 昭和通り
・文化系パンク ひがみ
・『バンやろ』
・モテたい
オバタカズユキ
80年安保=作家の橋本治とコラムニストの中森明夫は、1980年代初頭の糸井重里らによって作られた若者文化(サブカルチャー)を、そう名付けた。浅田彰現象やポストモダン・ブーム。ヒッピーカルチャーや全共闘運動のアンチテーゼ。
・90年安保=釜ヶ崎暴動、反天皇制全国個人共闘・秋の嵐 原宿ホコ天 → オウム真理教 外山の世代の不全感解消の試み
浅羽通明笠井潔の影響
・しかしそれにしても、ぼくの低姿勢、なんとかならないものだろうか。身体感覚が、もうそうなっちゃってるんだろうなあ。気は強く、文章表現になるととたんにゴーマンかましまくりなんだけど、実際の対人関係になると、どうもダメだ。低姿勢のぼくしか知らず、ある時ぼくの文章を読んで、腹の中ではこんなひどいこと考えていたなんて、そんな人だとは思わなかった、とぼくから離れていった人も多い。
・恥ずかしい話だが、ぼくは高校2年生だった87年の秋にブルーハーツを知るまで、「ロックは不良の音楽」という今時信じ難い迷信を抱いて、さだまさしばかり聴いていた。
・戦後の若い世代の「反抗」のワンサイクルが、たぶん82、3年ごろで終わっているのである。60年安保あたりから顕在化した戦後のラジカリズムは60年代末の全共闘を頂点として、その後70年代を通じて激しくなる内ゲバやいくつかの赤軍派関連の事件や東アジア反日武装戦線の爆弾闘争などに見られるように、次第に混迷し、倒錯していく。最終的には、左翼批判とも受け取れる80年前後のサブカルチャーの隆盛やポストモダン・ブームによって、戦後ラジカリズムは消える。
尾崎豊渡辺美里が登場して、若い世代の社会への反抗的な気分をすくい上げるのは、その後である。若い世代の反抗・反乱を正当化してくれる有力な思想がきれいになくなってしまった異常な状況の中で、尾崎や美里の歌はそれらをすくい上げた。強力な革命思想がなくなっても、反抗や反乱は常にある。尾崎や美里の歌は、83、4年から始まった「反抗」の新しいサイクルの最初の形であり、だからピント外れでぎこちないのである。彼らの表現は、陳腐な「愛」や「やさしさ」などといった幻想に支えられている。時代が流れ、若者の反抗的気分をすくい上げる表現がさらに洗練されて、80年代後半にブルーハーツが登場する。ブルーハーツの歌は、ぼくの気分にぴったり合った。ブルーハーツもその一翼を担った80年代後半の新しいラジカリズムは、89年から90年にかけてピークを迎え、91年から停滞期に入っている(そしてそのラジカリズムの停滞期を象徴するサノバビッチ野郎が長渕剛だ)。
・そして、ほとんど共感できないにもかかわらず、こだわりを感じてしまうのは、ぼくも尾崎も、それぞれが生きた時代の制約の中で、精一杯の抵抗をしてきたからであろう。
・ぼくはまだあまり詳しくないのだが、80年前後には、サブカルチャーの隆盛という現象が起こって、その渦中にいた中森明夫橋本治浅羽通明らは、これを「若い世代によるラジカルな活動の盛り上がり」ととらえて「80年安保」と呼んだりもしているようだ。これにならって、「90年安保」というものがあったと、ぼくは確信している。その背景となっているのは、80年代後半の反原発運動の盛り上がりを中心とした社会問題ブーム(ネタとしては、原発の他に、オゾン層破壊、天皇死去、韓国・フィリピン・中国天安門と続くアジアの民主化運動、ペレストロイカと東欧激動、管理教育、セクハラ、そして湾岸戦争などなど)である。そして、単なる「ブーム」の限界を突き破ってラジカルな活動を展開した「90年安保」の担い手は、例えばブルーハーツであり、釜ヶ崎暴動に駆けつけた若者たちであり、原宿"秋の嵐”であり、ぼくがやったDPクラブである。
・この構図が見えているかいないかが、80年代という時代をどうとらえるかという問題を論じる時に、大きな差になる。そして、ほとんどの論者は、これが見えていないのである。だから、雑誌などで、80年代を振り返ったり、それをもとに90年代を展望したりする特集を読むと、いつもイライラさせられる。ぼくたち「90年安保」世代の存在を抜きに、80年代も90年代も語れないのだ。
・1988年3月『福岡市立長尾小学校ゲルニカ事件』
・個人誌『カルピス』に触れた時に書いたと思うが、ぼくにとって、すべての思考およびその表出行為は「オナニー」でしかない。何をやっても「オナニー」にすぎないんじゃないか、というのは、反「管理教育」運動なんてことをやっていたかなり早い時期からうすうす感じていたことではあったのだが、「オナニー」で充分じゃないか、と思えるようになったのは、ほんとにごく最近のことだ。詳しくはここに書かないが、「実効性」を問題にし始めた途端に、「目的のためには手段を選ばず」的にさまざまな自他への抑圧が正当化される。恐ろしい管理社会であったスターリンソ連ポルポトカンボジアは、「実効性」を求める社会変革運動が必然的に行き着くところである。ぼくは「実効性」なんてことをハナっからムシして、ただもっと気持ちよくなるために、いろんなことを試してみようと考えるようになった。そう考えるようになって最初の大きな活動が、92年8月2日のブルーハーツ・コンサート爆砕計画である。これはすごく面白かった。「実効性」の論理から解放されるとこんなに気持ちのいいことがあるんだと思い知らされた。それまでのぼくの活動といったら、自己抑圧的なことこの上なかった。
6/6読了
 
◆感想:外山恒一のことがよくわかったし、この時代の雰囲気の一端が知れた。