- まえがき
- 第1章 “ロシア革命の父”レーニンはどこから現われたか
- 第2章 第一次世界大戦が開戦し、革命が勃発した!
- 第3章 十月革命とソヴィエト連邦誕生への道
- 第4章 粛清の嵐と独裁者スターリンの登場
- 第5章 そして革命は続く…
- 第6章 バクー油田の権益と、フランスとの密約貿易
- あとがき
第1章 “ロシア革命の父”レーニンはどこから現われたか
革命思想の誕生
・ナロードニキ(人民主義者) 底流として文学、音楽、演劇 ゴーゴリ、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、チェーホフ、トルストイ、チャイコフスキー
・1881年 アレクサンドル2世暗殺 → 反政府活動家やマルクス主義者が多いユダヤ人を弾圧=ポグロム 『屋根の上のバイオリン弾き』(1971年)
レーニンはどこから出てきたか
・1870年4月22日ウラジミール・イリイッチ・ウリヤノフ誕生 父物理学者 兄貴弾圧を受けて絞首刑
・大学首席で卒業(法律学)→活動家 生涯の伴侶 ナジェージダ・クルプスカヤと出会う
・1894年弾圧皇帝アレクサンドル3世死去→ニコライ2世
・「ロシア社会民主主義の教祖」ゲオルギー・プレハーノフ、マルクスの娘婿ポール・ラファルグと会う
・オーストリア→スイス→ドイツ
レーニンの流刑
・1895年12月21日サンクトペテルブルクで逮捕→シベリア、シュシェンスコエ村に3年間流刑 幸せな新婚流刑生活
・1899年『ロシアにおける資本主義の発展』執筆 改良主義的、経済主義的運動を強く批判
解放されたウリヤノフが活動を再開し、レーニンと名乗る
・1900年2月刑期満了 モスクワ→ミュンヘン 政治新聞「イスクラ(火花)」を発行 イスクラ派 ペンネーム「レーニン」を使用(レナ川の人)
・レーニンは、ロシア国内にもっと多くの部数の新聞を普及させるため、各地に運動員を配置していったが、グルジア(現ジョージア)のチフリス(現在の首都トビリシ)にいた熱烈な同志のグルジア人ヨシフ・ジュガシュヴィリなる男が、大油田のあるバクー(現アゼルバイジャン)に印刷所を設けて、レーニンのために大活躍しはじめた。この男ジュガシュヴィリこそ、革命運動のなかで用いた「鋼鉄の人」 を意味するスターリンを、実名として使うようになり、レーニンの死後にソ連の指導者の地位を継ぐ独裁者スターリンであった。
・1902年大著『何をなすべきか?』経済闘争ではなく政治闘争。 ロンドンへ
・レフ・トロツキー(レフ・ブロンシュテイン)が訪れる ユダヤ系
・レーニン・社会民主労働党・工場労働者のプロレタリアート/農民主体・社会革命党(エスエル)・ナロードニキ思想(人民主義)
・プレハーノフに疎まれ ロンドン→ジュネーヴへ
イスクラ派の分裂
・1903年 ブリュッセル ロシア社会民主労働党 再建大会
・ユダヤ人のブント加盟問題 レーニン「日和見主義者や煮え切らない者すべてに党員資格を与えることには反対する。常に厳格な内部統制に従う人間だけが党員でなければならない」
・レーニン「ボリシェビキ(多数派)」/プレハーノフやアクセリロード、トロツキー「メンシェビキ(少数派)」
・メンシェヴィキは、自由主義ブルジョワジーによるブルジョワ革命をめざし、貧困労働者階層のプロレタリアートはそれを側面から支援するべきだとしたのに対し、レーニンは労働者プロレタリアートと農民が「ブルジョワジーを完全に排除する」革命をめざしていた
・「ボリシェビキ」の方が実際は少数派なことに注意
日露戦争開戦
・1904年2月10日日本がロシアに宣戦布告
・レーニン、スイスで亡命生活 マクシム・ゴーリキーの友人医師アレクサンドル・ボグダーノフ来訪
・1905年新しい新聞「フペリョード(前進)」創刊
プティロフエ工場の巨大ストライキと、"血の日曜日事件"
・1905年1月16日(ロシア暦1月3日)に、ロシアの首都ペテルブルクにあるロシア最大の工場であるプティロフ造船・重機製造工場で労働者のストライキがはじまり、ペテルブルクの全労働者18万人中、参加者が11万人に及ぶ巨大なストライキに発展した。これが最初のロシア革命の勃発となった。さらにそれから6日後の1905年1月23日(ロシア暦1月9日)、ペテルブルクで「血の日曜日事件」が起こったのである。
・ペテルブルクで聖職者ゲオルギー・ガポンが10数万の民衆を率いて、労働者の法的保護、日露戦争の中止、憲法の制定、基本的人権の確立などを皇帝ニコライ2世に対して平和的に請願するデモ行進をしているところへ、近衛兵が発砲して鎮圧したのだ。これが、死者1000人、負傷者4000人とされる多数の死傷者を出し、ロシア革命の予兆となる重大な「血の日曜日事件」となった。
・ガポンは警視庁のスパイだった。
反政府活動の拡大
・1905年9月5日ポーツマス条約調印 日露戦争敗北
・「立法議会の召集と、言論の自由と結社の自由を保証する十月宣言」
・モスクワ、ペテルブルクでもソヴィエト誕生
・ツァーリ政府、また方針を変更して再度弾圧 活動家は逮捕されるか散り散りになる
第2章 第一次世界大戦が開戦し、革命が勃発した!
戦争の勃発を望んでいたレーニン
・1914年6月28日サラエボ事件勃発 8月1日ドイツがロシアに宣戦布告
・ドイツ語読みのペテルブルク→ロシア語のペトログラード
・レーニン、ジノヴィエフ夫妻、ポーランド→スイスへ脱出
帝国主義の戦争が社会主義者を堕落させる
・1915年スイスベルン会議 8項目の決議案 自国の敗戦を望むなど
・タンネンベルクの会戦 ロシア軍死傷者12万 第二次イーペル会戦 ドイツ軍が歴史上初めて毒ガス兵器を使用
弾圧される戦争反対の声
・ところが宣戦布告が出されると、燃えあがる国民の参戦意思を止められなくなり、結局「祖国防衛のための戦争」という民族主義的スローガンの前に敗北してゆき、どこの国でも、交戦開始によって「祖国防衛戦争」という大義の前に反戦思想がかき消されていった。これら連綿と続く戦争反対運動に参加した人びとは、それぞれの政府によって弾圧され、投獄され、殺され、あるいは脅迫されるか懐柔されて、もの言えなくされたのである。この史実にこそ、これから述べるロシア革命が、従来の人類の悪習を見事に打ち破った行動の真髄が見出されることを、知っておく必要がある。
二月革命が勃発した!
・戦争召集1500万人 物価高5~10倍 飢餓 厭戦ムード
・ついに1917年3月8日(ロシア暦2月23日)「ロシア二月革命」が勃発する。
・ペトログラード、プティロフ軍需工場、化学工場、石炭工場 ストライキ一斉蜂起
・革命の狼煙はモスクワにも飛び火し、労働運動が盛んなディナモ電気工場でも、労働運動が遅れていたリハチョフ自動車工場でも、同じように発火して、もはや食い止められる状態にはなかった。一方、ロシア全土の農民は、最も重要な農繁期に徴兵が実施されて、前線に送りこまれ、農耕用の馬も軍に徴発されて人力だけで耕作しなければならなかったので、さらに一層ひどい状態にあった。にもかかわらず、農村の労働力不足を補うために政府がとった方法は、捕虜と逃亡者という劣悪な働き手を農村に送りこんで解決しようというものだったのだから、農業生産力が一気に激減した。
・その結果、食糧不足がきわめて深刻になっていた。都市で台所をあずかる主婦は、空腹にあえぐ子供のために、病人のために、食べ物を求めて数時間も行列に並び、町中をさまよい歩くような日々を送っていた。こうした女たちの怒りは、耐えられる限界を越え、ロシア人の生命の危機、生存の危機を示していた。
・首都ペトログラードでは、食糧事情は、卵も肉も牛乳もほとんど食べられないほどに悪化していたため、3月8日(ロシア暦2月23日)の木曜日、国際婦人デーに、プティロフ工場の労働者2万人が街頭にくり出すと、そこに「パンを!」と叫ぶ主婦が子供をひき連れてどっと加わり、デモはみるみるふくれあがり、「戦争をやめろ!」、「パンを!」、「夫を返せ!」というスローガンを掲げて市の中心部をめざして大行進がおこなわれた。
・こうして食糧配給を求める大規模のデモが起こった。だが、デモは騎馬隊に蹴ちらされて、夜10時には市内が平静に戻った。しかし、左翼のボリシェヴィキも、ロシア政府も気づいていなかったが、実は、この日が「革命の勃発」だったのである。すでに一般の民衆が、ロマノフ王朝(ツァーリズム)打倒をめざしていたのだ。
・翌9日には、早朝8時からデモがはじまり、警官隊が橋を通行禁止にしたが、数千人の大群衆が凍りついたネヴァ川の氷の上を歩いて市内になだれこみ、騎馬警官に蹴ちらされても、すぐに戻ってきて、民衆の数が桁違いに膨大なものにふくれあがり、警官との衝突は激化し、パン屋に対する襲撃がおこなわれた。工場ストライキには224工場で20万人が参加する事態に発展したのである。ここで彼らが、デモを鎮圧するために動員された兵士や警官に、「デモに加われ!」と呼びかけたのだ。特に婦人労働者からの呼びかけ――「私たちの夫、父、兄弟は前線にいます。あなた方には母や妻、姉妹、子供がいるでしょう。私たちはパンと、戦争の停止を求めているだけです」という切迫した要求に、軍隊が動揺しはじめた。この兵士たちには、ペトログラードの労働者出身の者がかなり含まれていたので、主婦たちの叫びを、わが事として受け止めたのである。その結果、民衆と兵士の交流が生まれ、革命へとなだれこむ感情を燃えあがらせていった。兵士が、こうして王朝打倒に転向した時に、事態が決定的に変った。
・国会占拠 ペトログラード・ソヴィエト老兵組織成立
保守派の国会臨時委員会の反撃
・ペトログラード・ソヴィエト老兵組織と国会臨時委員会という二つの未確定な権力機構が併存
ロマノフ王朝が消滅し、立憲民主党(カデット)が実権を握る
・3月15日(ロシア暦3月2日)皇帝ニコライ2世退位 ロマノフ王朝が消滅 1547年びリューリック王朝のイワン雷帝から数えて370年、1613年の初代ロマノフ王朝の皇帝ミハイルから数えて304年
・革命側の死傷者1382人、帝政側の死者11人負傷者50人
・皇帝退位と同時にロシア臨時政府が成立 立憲民主党(カデット)、メンシェビキ、ブルジョワ民主主義側が権力を握る
ロスチャイルド財閥の資金で動かされるロシア経済
・なぜか戦争継続を決定=結局ロマノフ王朝も臨時政府もロスチャイルド財閥の手の中だったから
・「ロシアのロスチャイルド」ユダヤ人グンツブルグ男爵 シベリア鉄道 金鉱開発 ウクライナの穀物
臨時政府がおこなった改革の正体
・臨時政府の施政方針 ブルジョワリベラル的
・「8時間の労働、8時間の睡眠、8時間の自由」認められず
第3章 十月革命とソヴィエト連邦誕生への道
戦争の継続を拒否したロシアの民衆
・「無併合、無賠償の講話(戦争終結)を!」「全権力をソヴィエトへ!」
戦争継続論をとる社会主義者の内閣が生まれた
臨時政府「打倒」の武装蜂起がはじまる
・7月事件 先走り蜂起
レーニン再び国外に逃亡
ボリシェヴィキ支持者が圧倒的な多数となる
・クーデター鎮圧後ボリシェビキ中央委員会がソヴィエトに対して決議案「コルニロフの軍部クーデターを支持したのは臨時政府代表の諸党派である。いまや革命プロレタリアートと農民層だけで、まともな政府をつくらなければならない。その政策は、国会の解散、立憲議会の即時招集、土地の没収、労働者による生産管理、重要産業の国有化、資本家に対する厳重な課税、即時の停戦交渉である」これが通る
レーニンが変装して帰国する
・ボリシェビキの党員数急増2万→10万→35万
・スローガン「ソヴィエトに権力を、農民に土地を、人民に平和を、ひもじい者にパンを」
・バルチック艦隊とフィンランド駐留部隊が頼り
十月革命が起こった!
・10月23日11人で会議 レーニンの朝まで続く弁舌 29日さらに25人で会議 武装蜂起決定
・冬宮の目の前、ネヴァ川の島にあるペテロパヴロフスク要塞の武器庫にあるライフル銃10万挺を抑えたことが決定的
・スモリヌイ女学校 革命司令部
・1917年11月6日(ロシア暦10月24日)武装蜂起、7日完全勝利 ケレンスキー逃亡 血は一滴も流れず
歓呼に迎えられた"革命の父"レーニン
・疲れ切った勝利演説「労働者と農民の革命がついにおこなわれました。それは、いかなる形でもブルジョワが加わらない政府、ソヴィエト政府の樹立を意味します。虐げられた人びとが自らの手で、新たな政権の機関をつくるのです。まったく新しい機構がソヴィエト制度の形で生まれます。ロシアの歴史は新しい時代に入りました。この第三の革命は、必ずや社会主義の完全な勝利に達するでしょう。最も急を要する任務は、戦争を終らせることにあります。戦争は資本主義の体制と密接に結ばれている。つまり、まず資本主義そのものを倒さねばなりません。国際プロレタリアートは、われわれを助けるでしょう。地主の所有権を廃止すれば、農民はわれわれを信用するでしょう。われわれはすぐにでもプロレタリアート社会主義国家の建設にかかるべきです」
冬宮に突撃開始
・ファベルジェの卵、オルロフ・ダイヤ
勝利の大会で新政府が組閣された
・初の新政府(人民委員)会議「平和に関する布告」と「土地に関する布告」。「土地に関する布告」は実は実情に合っていなかった。
モスクワで流血の銃撃戦
・モスクワでは死者1000人
第4章 粛清の嵐と独裁者スターリンの登場
ソ連の秘密警察の誕生
・帝政時代の秘密警察オフラナ → 革命後「反革命・怠業(サボタージュ)・投機行為撲滅全ロシア非常委員会」チェーカー 初代議長フェリックス・ジェルジンスキー
・レーニン「弾圧も、警察支配も、テロルもない新しい社会をつくる」→「テロルを活用し、摘発した反革命分子を即座に射殺しなければ、われわれは一切成し遂げられないのだ」
・レーニンがこのような恐怖の秘密警察を創設した動機は、与党ボリシェヴィキが議会選挙で過半数を占めることができなかったため、暴力的な弾圧なしには、圧倒的多数のエスエル党を前にして独裁政権を維持できないと判断したことにあった。ここから、すべての間違いがはじまったのである。そもそも、一時レーニンと組んだドイツの反戦主義者ロー ザ・ルクセンブルクが、1919年1月にドイツのファシスト軍団に殺される前にレーニンを強く批判したのは、このような「共産主義者による独裁」であった。
・ドイツ共産党を創立したローザは、たとえ自分に敵対するブルジョワジーであろうと、考えの異なる人間と共に公正な選挙のもとで政治をおこなうべきであると主張したのに対して、レーニンがとった道は、反対者を血祭りにあげて言論の自由を奪う悪魔への道であった。それは、レーニンの師マルクスが説いた、「革命後に変革を遂げなければならない国家は、プロレタリアートの革命的独裁のほかはあり得ない」という教えに従う思想であった。この指令によって、ジェルジンスキーがボリシェヴィキの秘密組織「チェーカー」のために働く密告者を大量に雇い入れ、小さな町や村にまで数々の支部を設置したため、ロシア全土は、仲間を売る恐怖の密告社会と化していった。
レーニン暗殺未遂事件によって赤色テロルの処刑が激化した
・1918年8月30日レーニン暗殺未遂事件
・この1918年に強制収容所(ラーゲリやグラグ)の組織化がスタートし、チェーカーには、反革命分子を収容所に送りこんで処刑する全権が与えられた。日々ますます権限を拡大したチェーカーは、1919年には革命裁判所から独立した「共産党の一機関」であるいうお墨付きをもらい、やがて革命裁判所そのものがチェーカーの支配下に置かれて、判所の判決に対しては上告が認められなかった。交通機関も、産業も、国境警備も、ついにはモスクワの共産党委員会までが、チェーカーに監視・統制されるに至った。こうして、誰もその活動を制限できない無法の怪物、国家を超える組織となったのである。
・さらに、赤軍をはじめとした軍部もチェーカーの標的となり、反革命分子の摘発がおこなわれるようになったため、トロッキーは、軍部の諜報機関である労農赤軍情報局を改組して、自らチェーカーと別の軍事諜報組織「第4局GRU」を設立し、ここに両者の陰湿な戦いが夜のモスクワにくり広げられることになった。この軍部諜報機関が、第二次世界大戦後にソヴィエト軍参謀本部の情報総局となる組織であった。こうした組織の内部と周囲では、「自分のサークル以外の者は、すべて自分を殺す組織だ」と考えなければ生き残れない相互の探り合いが続いた。アレクサンドル・ソルジェニツィンが描いた『収容所群島』における凄惨な拷問、強制労働、虐殺を指導したのは、ジェルジンスキーだけでなく、ほかならぬロシア革命の父レーニンとトロツキーであったのだ。
・チェーカー→内務省国家保安局GPU→OGPU→スメルシュ→KGB(冷戦時代)
・セルゲイ・メリグーノフ『ロシアにおける赤色テロル 1918~1923』(1923)亡命先のベルリンで発行
・レーニン時代からソ連崩壊まで粛清された人間の数、多い数字で2000~4000万人
1918年、戦時共産主義制度とレーニン独裁への道
・戦時共産主義=すべての企業の国有化、革命政府に反対する貴族・資本家・地主から資産を没収する政策
・農業政策の失敗で大飢饉
・全私企業国有化でも混乱
・彼の独裁は、自分が生涯をささげて成し遂げた「共産主義革命の成功を死守する」ためなら、いかなる手段でもとる、ということが目的であった。そのため、部下のボリシェヴィキからは、敬意と、絶大な信頼を得て、「革命の勝利に必要なのは独裁である」のひと言で、すべてのテロルを正当化したのである。
・こうして都市の労働者階級を握るボリシェヴィキ独裁下で、1918年1月23~31日に、第3回全ロシア・ソヴィエト大会が開催され、「勤労・被搾取人民の権利宣言」を採択したが、すでにこの時期から、共産主義は、権利宣言とは逆に、人民の自由を弾圧して、狂気の暴走をはじめていた。
ブレスト・リトフスク講和条約の調印
P174まで