マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】宮台真司、仲村清司『これが沖縄の生きる道』(亜紀書房 2014年)

1章 「明るい沖縄」と「暗い沖縄」
出馬康成「マブイの旅」山田辰夫
復帰72年
地中海クラブ(クラブ・メッズ)
下地米一 大米建設
アメリカは民主主義の国
「土地をめぐる問題」
縁側 井戸端
私領域と公領域の境界線が曖昧な場所
建築的な動線の力学
「コミュニケーションを活性化する力学」都市計画
日本の土地売買が過剰に市場化されたのに比べ、中国は政治権力が土地売買ー正確には貸借権の売買ーに強力に介入
キャリコット 生き物としての場所
宮崎学「近代の奈落」
差別反対運動のバックラッシュ 新ステージ
沖縄ルネサンス 地元の文化を見直す動き
琉球処分 ヤマトに立ち向かっていない
平たく言えば、これまで本土に追いつき追い越せでやってきたけれど、目指すべきその本土はろくなものではないぞということが見えてしまった。
琉球王朝ロマンチシズム
アメリカの公共料理がなぜ不味いか 肉を焼いただけ イモを揚げただけ
エスニシティに偏りがないように無国籍化した料理
英語 どこにも属さないもの
「沖縄にいると日本がよく見える」「八重山にいると本島がよく見える」
「沖縄を返せ」反戦平和のシンボル
小那覇舞天
 
2章 運動論の再構築
沖縄も一枚岩ではない
ベトナム戦争「ハーツ・アンド・マインド」
だったら、両者が対峙する光景を横から撮ればいいじゃないか。そうすればカメラ位置が中立になるじゃないか。そう思われるかもしれませんが、違います。カメラ位置をサイドにすれば、視聴者や観客は、傍観者の立場から、互いの勢力が無益な喧嘩をしているように見るかもしれませんが、それが「中立」でしょうか?
ウォルター・リップマン「世論」
「擬似現実/真の現実」→調停不可能な多元的現実 見えているものが違う
ボードリヤール「消費社会の神話と構造」
+お涙頂戴の情緒的訴求
自分が沖縄に生まれた可能性 自分がシリアに生まれた可能性
カール・シュミット「敵/友」 ナチスの法学的ブレーン
高橋和巳邪宗門」あえてする
翁長雄志「沖縄の結集軸はアイデンティティであってイデオロギーではない」オール沖縄
カール・マンハイム 再帰的な伝統、共同体回帰
「内憂を外患で湖塗する」営みは古今東西に見られるユニバーサルなもの。
ルフレッド・アドラーは、トラウマ(精神の外傷)を持ち出すフロイトの枠組みを、現在における<勇気>の不在にかかわる自分の<責任>を覆い隠すべく「過去」や「他者」に問題の因果を転嫁するもので、端的に無責任だとします。
アドラーは、<勇気>の不在を自らの<責任>で取り除くべきだとし、それには、他人に操縦されないー―他者と自己の<課題の分離>を絶えず意識したーー<最終目標>の設定が必要だとします。<勇気><責任><課題の分離><最終目標>はアドラーの鍵概念ですが、同じ枠組みが沖縄独立運動にもあてはまります。
中江裕司 「ナビィの恋」 桜坂劇場
アーレントが命を賭して書いたのは、ナチズムという全体主義の責任をヒトラーアイヒマンに負わせるのは問題のすり替えだということです。
「悪の陳腐さ」→真面目に仕事することが悪になる。
ユダヤ人の中にも対独協力者が大勢いた
「あなたが彼の立場なら、本当に違うことができたのか?」
小川紳介 プロダクション 
大衆は公衆の頽落 マスコミ効果研究
暗黙に働く権力(微分化された暴力)
エスノメソドロジー フェミニズム カルチェラルスタディー
=呑気な社会学
グローバル化 中間層分解と共同体空洞化 格差の拡大 貧困層の増大
→民主制の健全な作動への信頼が失われ
→セキュリティと排外主義に過剰に傾斜する劣情に媚びたポピュリズム
ピケティのいうように、WW2以後は特殊な時代
社会学は呑気なままで、社会での存在感を失っていきます
沖縄の所得格差問題 基地の公共事業
経済回って社会回らず
「内憂がある時は外患を持ち出せ」
軍用地借料、基地関連交付金
そもそもいまの辺野古埋め立てのプランは、自衛隊の民間の親睦団体で、地元の経済界の要人で構成される「沖縄県防衛協会」の北部支部アメリカと直接交渉することで急浮上してきたものです。北部支部の会員はほとんどが沖縄県北部の建設業界の人たちです。ちなみに、仲井真知事は、少し前まで「沖縄県防衛協会」の会長を努めていました。
スコット・A・シェーン「<起業>という幻想」アメリカン・ドリーム終焉
実際、汚職や贈収賄にかかわる人の多くが会社のためにリスクを冒して自己犠牲の精神でやっています。
彼らにとっては「公」
「公」と「私」の相対性
ここでは「包含される集団・包含する集団」の区別を指します。日本は歴史的な理由で個々の内集団たちを包含する外集団が極めて弱い。
外集団とは市民社会
日本では、内集団の規範が有効に働くのに、外集団の規範が有効に働かない。社会心理学者の山岸俊男さんによれば、日本人が空気に流されるのも、単なる文化ではなく、外集団が弱いという社会構造に支えられた作法(の集積としての文化)です。外集団の規範がないので、内集団から放逐されたら、行動戦略が立てられず見通しが効かないので、それを回避すべく、たとえ仲間圧力に屈従しても内集団に留まろうとするわけです。
「変えられないものに合わせて、変えられるものの認知を変える」という認知的整合化のメカニズムゆえに「ムラの外は間違いで、ムラの中にだけ正義がある」という認識に堕落しもする。これが、内から見ると「公」で、外から見ると「私」、という二重性を帰結します。
分厚い市民社会がない。
内側に閉じないで、外側に説明責任を果たそうという動機づけが生じることが、外集団としての市民社会の存在と同義です。
自立した個人を作るには自立した共同体が必要 トクヴィル
アメリカの民主主義を支えるタウンシップ
サンデル「民主制の不満」
リベラリズム→共通感覚が消えたので、リバタリアニズム自由至上主義)になってしまう
だからコミュニタリアニズム
クリント・イーストウッド
アナーキズムに近いコミュニタリアニズム
→一部はゲーテッド・コミュニティ
チャーチルは「民主政治は最悪の政治形態と言うことができる。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けばだが」
脱力的な諦観 政治不信のシニシズム
・政治が文化に依存し、経済が文化に依存するのだから、時間をかけて文化的前提を変えるしかない、というのがグラムシの思考です。
→映画批評
→文化的ヘゲモニー闘争
ローザ・ルクセンブルクの戦い方
→IT・ハッカー、都市をハックする 短期戦
・「沖縄の人たちが一枚岩になるべきだ」ということの意味は、一枚岩の主張や一枚岩の闘争方針を採ることとは違います。そうでなく、裏で連携しつつ微調整しながら、それぞれの部署や立場にいる者たちが、全体の中で自分たちが実現できることを現実的に目指す、という方向で考えなくてはダメです。もっとわかりやすく言うと「敵と味方の線引きをガチで考えるな」ということです。
・実効性よりも情念を優先させがちな運動
真喜志好一 建築家
辺野古は軍港 60年代のプラン
海兵隊の出番は一番最後どこにあってもいい
95年の県民集会に戻って考えよう
 
3章 沖縄の若者たち
「就職に不利だから政治に関心を持つな」
基地問題は口にするな」
「政治の話はご法度」
※コミュニケーションのタブー化それ自体が状況への適応なので、タブー化を通じて、状況を変えることに対するあきらめが確実に出てきます。
住民を分断するのも、ひとつの手法
小さな島なんだから
言葉や理性が機能するための前提になる<感情のプラットフォーム>こそが大切。→幼少期のメディア
マグナス・ヒルシュフェルト「戦争と性」慰安所
真栄原 新吉原 栄町→辻
スーザン・ジョージ「なぜ世界の半分が飢えるのか」構造的貧困
自分の意志で依存したはずが、あっというまに他律的にー余儀なくされた依存に滑り落ちます
ジョナサン・ハイト「道徳心理学」感情の劣化
短期的に良いこと、長期的に良いこと
台風にも良い面がある
地震津波で目覚めよ
最初は「生活世界を生きるわれわれが便利になるためにシステムを使っている」やがて
→システムがわれわれを使っている 疎外
近代化のネガティブな副作用
認知的不協和理論 アメリカの心理学者、レオン・フェスティンガーが提唱した概念。矛盾した二つの認知がある場合、相互の不協和を減ずるために、一方の認知を変えて対処すること。
だから「見たいものだけを見て現実だと思い、見たくないものを見ないで忘却する」のは、人の世の摂理なのです。しかし、こうした忘却に委ねると世が滅びます。伝承と超越神は、忘却に抗う機能を調達してくれます。
福島と沖縄出身の学生たちに郷土を嫌うケースが増えている。
>>「可哀想と言うな」<<
イリイチ「ヴァナキュラー・ジェンダー=豊穣なコスモロジーから、セクシズム=痩せ細った単一の物差しへ」
石垣と尖閣と漁業権の問題もあってかなり「右傾化」しています。
小林よしのり「運動の終わり方」
→そうした運動は、被害当事者を当事者として数えるより、むしろ価値や感覚をシェアする一群の都市住民自体を当事者として数えるべきだというのが、メルッチの構えです。 東京レインボーパレード
60年代の内省→70年代前半のアングラブーム
☆仲村「ぼくたちはやっぱり記憶を語り継いでいくことに失敗したんだと思います。そして、最後にぼく個人の中に残ったのは、やっぱりパトリ(郷土)的な風景、あるいは島の原風景だったんじゃないかなと思うんですよね」 
植草甚一編集 宝島」
・ぼくたちはもはや<読み替え>をしようとは思っていなかったし、まして<ここではないどこか>を追い求めようとも思っていませんでした。そうではなく、何もかもがフラットになった退屈な時空の中で、どこかに強度(濃密さ)がないものかと彷徨ったわけです。まさに<意味から強度へ>です。
・ハバーマス「生活世界を生きる「われわれ」が自分たちのためにシステムを使うという具合に意識されていたのが、いつの間にか、システムの存続にとって「われわれ」は入れ替え可能な部品にすぎないという意識に変わります」
・システムによる生活世界の植民地化がなぜまずいか。ハーバーマス自身の議論を含めて今日では三つの理由が挙げられます。第一は災害社会学的な視点。東日本大震災。第二はハーバーマスやキャリコットの尊厳論的な視点。社会の歯車。入れ替え可能な部品。第三はサンスティーンやフィッシュキンの政治学的な視点。不安と鬱屈を当て込むポピュリズム政治。
ロハスの欺瞞
資本主義を使う
カップルが仲良くなるには 何度も長い散歩→一緒にスーパで買い物
囲炉裏
アングロサクソン 核家族だけど ホームパーティ文化
いまの内地は「クソ社会」以外の何ものでもありません
「迷える本土に引きずられるな」
 
第四章
大田昌秀
基地返還アクションプログラム
国際都市形成構想 東アジアの架け橋 →稲嶺恵一
愛郷心が持てるような街づくり
中国は土地を永久には所有できない仕組み
代官山ツタヤ 増田宗昭
人口予測 2060 8674万人
コザ パークアベニュー シャッター街
ファシリテーターは闘技の 内容よりも形式について 主題よりも手順について指示する人
「議事進行をつかさどるひ人」
ピケティ 1950-90年 投資よりも労働が利益を産んだ期間
中間層と中流意識 民主制が健全に作動した時代
京都迎賓館
立派な者/浅ましい者
西ドイツ ヴァイツゼッカー演説
罪はないが責任はある
おさらいすると、フロイトは過去のトラウマを重視。トラウマの無意識的抑圧が神経症的固着を生み出すとします。アドラーはこれを批判。過去のせいにするのは他者のせいにすることと機能的に等価な外部帰属化で、無責任を蔓延させるとします。アドラーによれば、アリストテレス的な意味での最終目標の設定次第で、現在の優先順位が変わり、それ次第で、過去に関する事柄の優先順位も下がる。だから「過去の引力」よりも<未来の引力>を、「因果」よりも<目的>を、「トラウマ」よりも<勇気>を、畢竟「罪」よりも<責任>を重視しなければなりません。こうしたアドラー=ヴァイツゼッカー図式を持ち出せば、「罪」は過去への帰属で、「責任」は未来の引き受けであり、「罪」を論じて「責任」を果たさない者には、未来が訪れないのです。
尖閣 1972 田中-周恩来会見 棚上げ図式
1978 訒小平 再確認
1997 日中漁業協定
2010 漁船衝突 「逮捕・起訴」 本来は「拿捕・強制送還」
ヨーロッパも90年代にリヴィジョニズム(「歴史修正主義」)やネオナチの嵐
石垣に右派が移住している
与那国 自衛隊基地
二重冊封体制
「真の愛国は激情ではない」
ネトウヨ=社会の空洞化
貧困層でも感情の劣化
 
あとがき
祭り 酩酊 準備手間ひま 歴史
畢竟、これらは<社会>のイベントに過ぎず、<社会>の外=<世界>を開示しない。<社会>の外に戦慄して今に<感謝>し、<社会>の外に踏み出して今から<解放>されるという、祝祭=<世界>との接触契機がない。それゆえの深さの欠落を、動員規模や仕掛けで埋めているだけだ。
中川陽介「真昼ノ星空那覇の下町
東ノボル 沖縄テレクラ 瞬間恋愛
 要はこういうことだ。「現実」にはあり得ない(と「断念」した)「夢想」を抱くにも、実は「現実」の基盤が必要になる。その証拠に、『天使のはらわた』シリーズが「夢想」に過ぎないことは当初から誰もが知っていたが、今では「夢想」としてすら映画に描けないのである。
「パトリ」
 ところがそうした手段入替困難性に還元できない二つの要素がある。固有名と、身体性である。まず、私の固有名や、固有名と結びついた人格性が、コミュニケーションの前提になることが、パトリの要件となる。それは、老若男女を問わず誰もが理解できるだろう。
 身体性の要素はそうはいかない。これは経験的にしか想像できない。登下校時や外遊びの際の動線、空間、文物、関係が、盲人にとっての杖のように身体化した状態。そうした互いの身体性が互いを組み込み合うことで生じる「われわれ」意識を、私は〈共同身体性〉と呼ぶ。
 盲人にとっての杖のように身体化された場所ということであればどこにでも簡単に生じる。だが動線、空間、文物、関係をも含み込んで、互いが互いの身体性を前提として組み込み合うような場所は、簡単には見つからない。この第三要素まで含めたパトリは稀少だ。
中平卓馬
11/19-12/11読了