マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

大澤真幸編『アキハバラ発―〈00年代〉への問い』(岩波書店)

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

  • 発売日: 2008/09/26
  • メディア: 単行本

はじめに 大澤真幸

・事件2008年6月8日

I

真夏の秋葉原を歩いて,ここには本質など何もないと気づいた  森 達也

・加藤 日研総業
秋葉原事件翌月 京王八王子駅ビル9F書店通り魔事件 
・1995地下鉄サリン事件の本当の動機は何か?解明されていない。
・標的を失った不満や鬱憤 → 「誰でもよい」のではなく「誰かであっては困る」

「排除」のベルトコンベアとしての派遣労働 竹信三恵子

・この頃の派遣は過酷

孤独ということ――秋葉原事件を親子関係から考える 芹沢俊介

・加藤 頻繁な携帯サイトへの書き込み
・母親(起点)の欠如 家遊び→軒遊び→群れ遊び
★子どもは自分の内部に「隣る人」という絶対的な信頼の対象の存在を感じることができるなら、「一人になれる」。子どもは一人ではないから、一人になれるのだ。危機において自暴自棄に陥ることなく、粘り強く自らを支えることができるのである。内部に「隣る人」がいない状態、これが孤独である。
・「誰か」=他者の原型、他者との関係作りの原型。心のなかにこのような「誰か」をもつことが将来、他者とのあいだに善き関係を作りあげるための核になる。
・「隣る人」の空洞状態を埋める→携帯依存
・信頼の基底としての「親子関係」 最後に信頼ということに一言触れて、この稿を閉じたい。経験上、信頼は2つの層からなっている。第一の層すなわち基底は絶対依存という経験。子どもがまるごと自分を他者にあずけ、あずけられた他者がそのまるごと依存してくる子どもをまるごと受けとめるという関係というようにいうことができる。子どもにとっての絶対依存を可能にする対象を「受けとめ手」と呼ぶ。このことは母子関係でみると明瞭である。最初の母親の役割は、胎内においても乳児段階においても絶対依存せざるをえない子どもの無条件の受けとめ手になることだ。子どもは受けとめられ体験をたくさん与えてくれた人を信頼する。子どもが母親を信頼するのは、母親が自分の産みの親であるからだけではなく、もっと本質的には彼女が子どもの絶対依存の受けとめ手であることに理由がある。信頼関係の基底は依存できる(reliable)ことなのだ。このような依存と受けとめの関係が成立すること、これを<親子になる>という。<親子になる>プロセスに入ることが信頼関係の生まれる第一条件なのである。
・人を信頼するということは欲得抜き、無条件に自分を相手に差し出し委ねる行為をいう。その人にたとえだまされてもかまわない、という積極的で主体的な態度である。つまり自立的な態度だ。この自立性としての信頼する(trust)は、信頼できる(reliable)という基底を得て、はじめてその上に創られる。依存と自立は対立的ではない。それどころか自立的であるためには絶対依存の経験、無条件の「受けとめられ体験」が不可欠なのである。加藤青年にはこうした(親子になる)という人間関係の原型的なプロセスが欠如していた、そのように思えてならない。

若者を匿名化する再帰的コミュニケーション 斎藤 環

・コミュニケーション至上主義 コミュニカティブであることが無条件に善とみなされる社会にあっては、正当な理由なしに非コミュニカティブであることは承認されない。若者の多くは、中学高校時代の「スクールカースト」経験などを通じて、人生早期にこうした態度に徹底して馴致される。その結果、若者の「居場所」は、コミュニケーションスキルのいかんによって狭く規定されてしまうことになる。
・通り魔事件の容疑者たちに共通するのは、彼らが学校や社会のコミュニケーション・サークルから疎外された経験を持つ、コミュニケーション弱者であったという履歴だ。現代においては、多様なマイナス要因が、最終的にコミュニケーションの問題へと輻輳しやすい構造があり、それは加藤容疑者の「不細工には恋愛する権利がない」といった言葉に象徴的に現れている。そう、若者の不幸は、貧困よりも障害よりも、たとえば「非モテ」などの言葉に象徴されるような、コミュニケーション弱者の形式に集約されやすいのである。
・「誰でも良かった」=彼らが自分自身に向けた言葉でもあったのではないか。=「(これをするのは)自分ではない誰でもよかった」
東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』 リアリティがそもそも虚構的になっている時代

街路への権利を殺人者としてではなく民衆として要求しなければならない 和田伸一郎

・加藤容疑者が抱いていた格差社会への不満 この初発の不満を、個人的な恨みや劣等感へと内向的に狭めてしまうのか、それとも、公的な事柄としての格差問題への集団的な怒りへと外向的に広げていくのかは全く異なること
・なぜ、彼は不満を集団的な怒り、すなわち政治化へと発展させることができなかったのか。→社会構造の閉鎖性
★選挙とは、アレントやジャック・ランシエールが言うように、原理的にいって、下から意見をくみ上げる制度であるよりもむしろ、上からの意見を選挙民に承諾させるための制度なのである。ランシエールのいうように、代表制とは、実際には、少数の特権階級が自分たちの支配を維持するための寡頭的なものなのである。
・こうして不満の声は置き換えられ(政治的な不満→社会的な不満)、孤立させられていく。そうなると、さらに次のように行き詰まっていく。すなわち、公的舞台で話すことを諦めた人間によって社会的なものの内部でつぶやかれ、わめかれる愚痴や苦情は、ますます私的なもの、個人的なものとなっていくと同時に、汚い言葉になっていき(インターネット上のある種の書き込みに人が見いだすように)、住民同士が互いにいがみ合うという事態に行き着く
民衆はこうなるように仕向けられているのだが、ここにこそ特権階級による<侮辱>(ランシエール)を見いだす必要がある。ここにあるのは、貧困などの社会的疎外よりももっと深い政治的疎外である。政治に関わることが許されないということ、不満があっても公的領域の取り決めが行われる舞台に上がって、発言する資格が与えられていないこと、これは<政治的動物>(アリストテレス)であることを認められないという、民衆全員への侮辱を示している。古代ギリシアの奴隷たちのように。
★現象や出来事の原因とそれへの対処を<社会的なもの>の中に押し込める「社会問題」化とは、事象を社会的なものの閉域に限定して観察するある種の態度を示している。つまり、政治的動物として認められないまま、社会的なものの内部に閉じ込められた人びとは、《外》に対して不満や願望の声を発するための手段をもたないがために、時として外向的破壊explosion(犯罪など)、あるいは内向的破壊implosion(自殺など)に向かうことがあるが、これを観察し、これらの破壊に何らかの原因を見いだそうとするある種独特の態度が、「社会問題」化である。
・しかし、この態度は、最初から《外》を切り落として事象を絞り込むところに問題がある。これに対し、内向化する(不満のような)情動を、《外》との接続へと向け直そうとするのが、民衆の政治(ランシエールのいう《デモクラシー》)である。
派遣社員やフリーター、ニートたちの問題とは、貧困による疎外、社会的な孤独、心理学的な無気力といった「社会問題」ではなく、政治的な分割問題、つまり、支配を維持するために、それに反対する人を無力にしておくという分割の政治問題の結果だと考えた方がいい。貧しいということよりも、それ以前に、民衆が政治的に全く無力であり、少数の特権階級による支配に何ら影響を及ぼさない人間にされていること、彼らをそのようにしておくことで利益を得ている一握りの特権階級がいること、が問題なのである。
・一方の貧しい多くの人びとが孤独になり、疎外されることで、利益を得ている他方の少数のエリートたちがいるというところを見ない限り、「孤独、疎外、貧困はよくない」と良識ぶった専門家たちが「道徳」のような疑似普遍性に訴えかけてみたところで、何の解決にもならない。ここで必要なのは、弱者の悲惨を知ることよりも、妨害されている《外》との接続へと人びとを導くことである。
★あるいはもしかすると、社会的なものの内部であっても、人びとは、選挙に行って投票したり、相談窓口で相談したり、苦情電話したり、ネットに書き込んだりすることで、他人に意見が伝えられ、状況を変えることができると思っているかもしれない。しかし実際には、これらは、意見が周りへと伝播していくことを防ぐために、意見の通路を個人化し、ばらばらにして、お互いを隔てるための巧妙なシステムだと考えたほうがいい。
ここで必要となってくるのが街路である。というのも、街路は人びとの不満の声を一つの共同体間で響き渡らせる共鳴箱として機能するものだからである。そしていつの時代も、街路で民衆が誕生してきた。
・街路への権利 普段の秋葉原の街路は、他の街路と同じように、消費者たちが「通り過ぎるためだけの場所」、互いに行き交うだけでコミュニケーションの生じない脱政治化された場所
★いつの時代でも、民衆が現れ、増殖するのは街路においてだった。そしてこの理由から、国家権力は街路を恐れ、犯罪や事故を防止する名目で、街路に秩序を敷こうとしてきた。つまり、民衆の政治的な活動を、「交通問題」として取り締まろうとしてきた。
・デモの権利を与えるように見せながらも、しかし、政治権力にとって都合が悪いとなるとすぐに政治問題ではなく交通問題として取り締まろうとする(ポール・ヴィリリオ)。
こうして、交通違反の取り締まり強化は、いつしか、民衆から政治的熱狂の感覚を失わせ(さらにはその感覚に罪悪感を抱かせ)、都市の街路は、ただ通り過ぎるためだけの空間、少しでも目立った行為をすれば、不審者扱いされるほど互いが分断された空間になったのである。ここにも、社会的なものによって保護されることを選ぶことによって奪われる《自由》がある。
・マスコミによるヴァーチャルな霧と裂け目 
・重要なのは、こうした失われた集団的な政治的熱狂をいかにして民衆の内によみがえらせるかということであって、最初から《外》を切り落とされた閉鎖空間での、つまり、最初から民衆の政治的可能性が取り除かれた街路での、社会問題化された加藤容疑者の私的な犯罪行為ではない。

コラム 追い詰められた末の怒りはどこへ向かうのか 雨宮処凛

・派遣労働 生きていくためにはお金が必要なので、どうしたって働かなくてはいけない。けれど、働くということは、他人からの承認、社会に必要とされているという承認にもなるのだ。その仕事がぶつ切りにされている。
・追い詰められた彼ら・彼女らの怒りは、社会全体に向けられている。けれども多くの場合、その怒りは犯罪として現れるのではなく、自殺、自傷、あるいは親への暴力という形で、結局は自分や自分の周りの家族へとぶつけられていく。そして自分を責め続けることになる。何年にもわたって社会に傷つけられ、その社会への憎しみを自分自身にぶつけてきた人にとって、無差別殺人と自殺は紙一重のところがある。
・今の日本には、「だらしがない」「自分のせいだろう」という社会からのバッシングに対抗できず、自己否定のスパイラルに落ち込んでいくという回路ができてしまっている。
・メンヘラー、プレカリアート運動、インディーズ系ユニオン、派遣労働者ワーキングプア、ひきこもりやニートといった様々な当事者たちが、自らの生存、「生きさせろ」という一点において集い始めた。だが、加藤にはリーチしなかった。都市と地方の関係もある。

コラム K容疑者と生活困窮者の間 湯浅 誠

・自己責任論の圧力の強さ

II◎インタビュー

「私的に公的であること」から言論の場を再構築する 東 浩紀

歩行者天国のパフォーマンス
・「ひぐらしGTAを買っておかないと」
赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい--31歳、フリーター。希望は、戦争。」2007年1月
・彼が主張しているのは、ふたりとも似たような才能、似たような生まれなのに、一方が正規で他方が非正規というだけで生涯年収が3倍も4倍も違うのはおかしい、というじつに小さな感情なのです。それは言うならば、偶然性への怒りです。だからこそ、彼は、社会改革よりも、すべてをリセットする戦争を望むのです。
・偶然性への苛立ちは、今回の事件を考えるうえでキーワードだと思います。今の社会は、完全に階層が分化した――ペンキ屋に生まれたらペンキ屋になるというような――社会ではない。言いかえれば、だれにでも成功の機会は与えられています。しかし、あたりまえですが、すべてのひとが成功するわけではない。そのときに、失敗の理由をどう捉えるか。その理由づけが、いまの社会ではうまく働いていないのです。才能や努力という要素もあるけれど、基本的には偶然でしかないように感覚されている。
・流動化した社会。すべてが交換可能。空虚なポストモダン

存在論的な不安からの逃走 ――不本意な自分といかに向き合うか―― 土井隆義

・「勝ち組」=充実した人間関係を生きる人々
・Kにとっては、派遣社員としての生活の不安定さよりも、「彼女」に象徴される理想的な人間関係を紡げない疎外感のほうが、むしろ深刻な問題だった。派遣社員という境遇は人間を孤立させやすいから、むろん両者は密接な関係にある。
・その疎外感は、現実に友人がいるか否かとはあまり関係がない。理想的な関係に対する主観的な憧れのほうが、現実の関係をつねに上回ってしまうからである。その憧れは、自己承認への過剰な渇望感と言い換えてもよい。
・(非行少年たちによるオヤジ狩りと)同様に、Kの日常生活もトライブの内部で閉じている。彼の犯行は、トライブ内の人々に自分の存在を訴えるための手段であって、格差社会に対する異議申し立てなどではなかった。秋葉原の通行人たちは、恨みや妬みの対象ですらなく、犯行のための道具であり物体にすぎなかった。だから、犯行現場が秋葉原でなければならなかったのに対して、犯行相手についてはまったく無関心で、「殺すのは誰でもよかった」のである。
・自分にとって不気味なもの、異質なものを排除するのではなく、むしろそれを積極的に取り込み、その異質さと折り合いをつけて生きていくことが、そして異種混交の人間関係を紡いでいくことが、不本意な自分に対する耐性力の涵養へと繋がる

事件を語る現代――解釈と解釈ゲームの交錯から 佐藤俊樹

・殺人事件は減っている

無差別の害意とは何か 中西新太郎

・「誰でもいい誰か」として私たちをその内におく社会編成の現実

極端現象か,場所の不安なのか――秋葉原殺傷事件の社会学的前提を考える―― 内田隆三

・再開発 風景の喪失 風通しの悪い街 直線と直角だけの街 ルートヴィヒ・ヒルベルザイマーの世界
内田隆三は自分には合わない

コラム 劇場型犯罪の果て 速水健朗

・彼はリアルタイムで実況されたかった
・「自称グラビアアイドル」逮捕事件の模倣 劇場型犯罪の新しいフェーズ

コラム 主客再逆転の秘義 永井 均

・無差別殺人=社会と名づけられる主客逆転の仕組みそれ自体に対する復讐

III

世界の中心で神を呼ぶ――秋葉原事件をめぐって 大澤真幸

美少女ゲーム「CROSS CHANNEL」2003年 ダガーナイフ
・「フリーター」「ニート」あるいは「パラサイト・シングル」等といった、非典型労働者を指し示す語は、いずれも否定的なコノテーションを伴っている。これらの語を含む言説は、しばしば、多くの若者が非典型労働者化した原因を、「甘え」「ぜいたく」「やりたいこと以外にはやろうとしない」等の彼らの態度や心理的傾向に帰着させることで、彼らの周辺的な位置を「自己責任」化してきた。
・非典型労働者たちが、左翼よりも右翼系の言説や運動に共鳴するのは、賭金となっているのが、経済的な地位ではなく、アイデンティティやそれに伴う自尊心の問題だからであろう。右翼系の言説やナショナリズムが人に提供するのは、特殊な共同体に所属していることからくる――尊重に値する(とされる)――アイデンティティである。
・「Xからの疎外」ではなく「「Xへの疎外」から疎外されている」
・自分の仕事が普遍的な価値を有する使命Xとどう関係しているのか、まったく実感できない。
・非典型労働者は、単純に、何かから疎外されているのではない。そうではなくて、そもそも「からの疎外」の前提となる「への疎外」の圏内に、彼らは入り込めていないのだ。
・朝から晩まで誰でもできそうな仕事をやらされて、給与は低く、昇給もなく、いつでもかんたんに解雇されてしまうとしたらどうであろうか。お前は普遍的使命Xには何も関係ないゴミである、と声高に言われているようなものではないだろうか。
・今、自分が具体的に実感できる部分的な小領域xが普遍的な全体Xへとどうつながっているのか、まったく把握できないとしよう。このとき、それでも、なお全体Xへの結びつきに固執したときには、結局、その部分的で特異な小領域xがそのまま全体Xである、と見なすほかないのではないか。これこそが、セカイ系である。セカイ系は、重層的な疎外への防衛反応のひとつである。
・日記=「懺悔」の代わり
プロテスタントは、司祭のような具体的な他者に対してではなく、抽象的な神に向かって、日記という形で直接に告白したのである。
・Kにとって、「恋人」=神 自分にとって相手も、相手にとって自分も唯一的
・Kはインターネットへの孤独な書き込みによって、そして世界の中心でのテロによって、神を呼び寄せようとした。
・「ただいまと誰もいない部屋に言ってみる」 Kの「ただいま」に「おかえり」と応ずる、神も恋人も現れなかった。
・永山にとってはまなざしが地獄。加藤にとってはまなざしがないこと他者たちのまなざしが集まらないことが地獄

事件を「小さな物語」に封じ込めてはならない 吉岡 忍

実存主義の批判として登場した構造主義に由来するポストモダン思想では、主体という概念も軽視され、意味を持たなくなった。あらかじめ歴史や世界が取り払われている上に、主体もないとすれば、個々人の意思はたんなる「好き嫌い」に還元され、経験は個人的な「思い出」としての意味しか持たなくなる。こうして一人ひとりは糸の切れた凧さながら、身近だが、たえず移り変わる関係性だけをたよりに、漂うように生きるしかない。日本のポストモダン思想はそう生きることに意味を見いだし、とりわけ若い世代に向けて奨励し、強いてさえきた。
宮崎勤 日本とアメリカが戦争したことを知らなかった 歴史の蒸発、歴史的事実への無関心
・私は、人は「小さな物語」に自足できないと思う。それが精緻に、濃密になっていけばいくほど、他者と切れていき、一人ひとりが周縁化される。誰にも承認されていない、というその孤立感や焦燥はあっという間に攻撃性に転化し、自己顕示的な破壊工作となって暴発する。そうなる前に作用すべき内発的なブレーキが、歴史や事実に関心のない「小さな物語」には組み込まれていないからだ。
・犯人は入り組んだ必然の糸にたぐり寄せられるように、凶行に向かって進んでいく。

なぜKは「2ちゃんねる」ではなく「Mega-View」に書き込んだのか?――2000年代のネット文化の変遷と臨界点をめぐって―― 濱野智史

・「Mega-View」内の「究極交流掲示板(改)」スレッド「【友達できない】不細工に人権なし【彼女できない】」
・2004年 ニュー速 クソスレ(どうでもいい話題)→VIP板へ飛ばす
・VIP替え歌 「雌豚」 浜崎あゆみ「BLUE BIRD」
・メガビュー=「勝手サイト」。メガビューだと気づかない。
・おそらく究改に偶然流れ着いた
2ちゃんねると違い、「自分の話を「素直に」聞いてくれる誰かだいるかもしれない」という期待を抱くことができる場所
2ちゃんねるの<ネタ>には満足できなかった。

孤独であることの二つの位相 浅野智彦

・彼は、親密性の領域(恋愛)において疎外されてあることの苦痛を必死に訴えているが、実際のところ彼が疎外されているのは敬意と尊重との交換によって成り立つ領域、いわば公共性の領域なのである。
・公共性の領域において場所を確保するためのもっともありふれたやり方は労働であろう。何らかの労働に従事することで人はその領域に参加し、単に生計を立てるだけではなく、尊重・敬意の交換のネットワークに加わることができる。
・趣味のコミュニケーションによって承認を得られる場所がいたるところに開かれている社会を構想する。

コラム この20年で私たちが学んだこと 伊藤 剛

・価値なし

コラム 〈この手の事件〉のたび私が思う漠然としたこと 岡田利規

・メディアと距離をとれることも一種恵まれている。

IV◎座談会

〈承認〉を渇望する時代の中で 大澤真幸平野啓一郎本田由紀

・今の日本社会、収入とモテ・非モテの問題が連動している。
・現在の貧困問題は、湯浅誠さんが『反貧困』で言っているように、単に物質的にお金がないという問題ではなく、人間としての承認の欠如につながるような問題です。収入が低いとそれだけで、他者や自分自身からの承認を奪われてしまう。自己責任論はまさにそのようなものとして機能しているわけです。お前は人間力のないダメなやつだから、モテないし、貧困なのだ、と。それを本人も受け入れてしまっている。
・これは資本の側にも都合がいい論理 低収入を自己責任と受け入れさせる
・貧困が社会問題になっている現在は、「左翼」の絶好の好機なのに、いまひとつ元気がなくて、「右翼」のほうが元気がいい。なぜ若い人たちが左翼ではなく右翼に惹かれるのかというと、右翼はまがりなりにも承認を与えてくれるからです。
・「承認」が不足して、貴重なものになっている。
・「承認」にお金がかかる(と思い込まされている)
・正社員の側は非正社員の自由な時間を羨み、低賃金を蔑む。非正社員は正社員の給料を羨み、長い労働時間を蔑む。要するに、相互に承認が生まれない構造になっているのです。
・企業にとっては、こういう分割統治をしながら、「適材適所」で労働力をそれぞれ別の意味で最大限活用するのが効率的というわけです。
・自分に欠けているものをほかのカテゴリーの人に投影するという形になっている。非正規雇用だと、正規雇用であれば承認を得られたと思うし、正規雇用だと、好きなことをやれた人のほうがよかったのではないかと思う。こうして自分の生それ自体における全体的な不遇感を誰もが抱き、誰もが承認を訴えている。
・承認の枯渇が、この社会の普遍的な状況になっている。

執筆者紹介

 
11/5読了。
概要:秋葉原事件に対する色々な考察。
感想:和田伸一郎先生の「街路への権利」に対する考察が抜群によかった。芹沢俊介先生の親子関係の話もあまり読んだことないので新鮮で為になった。信頼の基底としての親子関係。「まるごと受けとめられ体験」。「承認」の問題がいまの社会でメインになっていることも頷く。どこで「承認」を調達するか。正社員と非正規を分けているのは、一種の分断統治(お互いを嫌い争わせる)だという指摘も目から鱗だった。分断統治が社会のいたるところに仕組まれている。