マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

「作品#04 続・哲学用語図鑑トレーディングカード」紹介①中国哲学16枚 #01-16

目次

01.孔子

儒家儒教

諸子百家の中でも、特に大きな影響を後世にまで及ぼした学派が儒家道家です。儒家の祖である孔子は、春秋時代(BC770~BC403)の混乱した社会秩序を安定させるために、周(周代BC1046~BC771) の時代まで当たり前に行われていた儀礼をよみがえらせるべきだと考えました。
ただし儀礼は、形式だけのマナーではなく、現実の人に対する愛情や思いやりのあらわれだと孔子は考えました。お辞儀が大切なのは相手を敬う気持ちが大切だからであり、葬儀が大切なのは悲しむ気持ちが大切だからです。これが、孔子が礼(儀礼)を重要視した理由です。彼は、儀礼に内在する人を愛する心をと呼びました。
孔子の思想は、この仁と礼という言葉に集約されます。仁がなければ礼の意味はありません。けれども、礼がなければ仁が磨かれることはないと孔子は言います。彼は、習慣的な礼の実行が仁を完成させると考え、礼が習慣的に行われる社会を理想としました。
孔子の教えは儒教と呼ばれ、孟子荀子朱子(朱熹)や王陽明などに受け継がれていきました。そしてさらに、日本を含む東アジア全域の人々の心に計り知れない影響を及ぼすことになります。

仁/礼

孔子の思想はという言葉に集約されます。仁とは人を愛する心のことです。礼とは仁が目に見える形式となってあらわれたものをさします。具体的には礼儀作法のことです。
仁には、、そしてがあります。中でも孔子は親に対する情愛である孝と、兄(年上の人)に対する敬意である悌(孝と悌をまとめて孝悌)が最も尊いと考えました。孝と悌の2つが人間の自然な感情だと考えたからです。
そして孝と悌の気持ちを他の人間関係へ広げていくことで、よりよい社会ができると説きました。
そして孔子は仁と同じくらい礼を重要視しました。なぜなら、礼の実践によって個人の心に仁が守られると考えたからです。私利私欲を抑えて礼を実践し、心に仁を守ることを克己復礼といいます。
孔子は、克己復礼が習慣的に行われる社会を理想としました。日本も礼儀を重んじますが、孔子(儒教)の影響を強く受けていることがわかります。

徳治主義

理想の国家(社会)のためには、王みずからが、仁と礼を兼ね備えた君子であることを目指すべきだと孔子は考えました。そして王が持つ仁と礼で民衆を感化することで、よい社会ができると説きます。このような徳による統治を修已治人といい、修己治人を理想とする政治思想を徳治主義といいます。
徳治主義は、後の韓非子が奨励した、賞罰をともなう法治主義とは、大きく異なる考えでした。

君子(仁と礼を兼ね備えた人)

仁がなければ礼の意味はありません。けれども孔子は、礼がなければ仁が磨かれることはないとも言いました。彼は礼を実践しながら仁の完成を目指すことをにたとえました。儒教とは道の歩み方を説く教えだといえます。

02.老子

道家道教

諸子百家の中でも、特に大きな影響を後世にまで及ぼした学派が儒家道家です。このうち儒家は、仁や礼の重要性をしきりに説きました。
けれども道家の祖である老子は、仁や礼などは、世の乱れを対処するために仕方なく作られたものだと考えました。仁や礼を説くのではなく、むしろ、仁や礼を必要としない社会を作り、人間本来の生き方に戻るべきだと彼は説きます。 人間本来の生き方とは、道(タオ)を理解し、道(タオ)に従って生きることです。そして老子にとって道に従って生きるとは、自然の法則を見習いながら生きるということでした。
老子を祖とする道家の思想は、後に仏教や陰陽五行説と合わさって、民間信仰である道教を生むことになりました。
道教・・・宇宙を満たしている5種類の元素を操り、仙人を目指す宗教が道教道家の思想から生まれたが、老子荘子の思想とは別物とされている

道(タオ)

老子は、宇宙のあらゆるものを成り立たせる存在を仮に道(タオ)と呼びました。道は見たり触れたりすることはできません。また、「道はこういうものだ」と言語で表現することもできません。特定できない以上、名前がつけられないので、老子は道のことを無(無名)とも呼びました。
(道とは宇宙を成立させる根本原理。具体的には、経年変化、因果関係、作用反作用などの自然(物理) 法則のこと)
道(無)は天地ができる前から存在し、有を生み出し続ける混沌だと老子は言います。万物は道(無)から生まれ、常に変化し、やがて道(無)に帰っていきます。
道徳や文化(たとえば正義、礼儀、名誉、財産、文明、知識) などの人間が作った価値も例外ではなく、この法則に従ってつねに変化し、やがて消滅します。道はその消滅の様子を黙って見守るだけです。
絶えず変化して、いずれ消滅する道徳や文化などの価値にとらわれていては、幸せにはなれません。それよりも自然の法則を見習いながら生きることを老子は勧めます。つまり「道に従う」という生き方(無為自然)です。

大道廃れて仁義あり

「大道廃れて仁義あり」という言葉には老子儒教に対する批判が表現されています。かつて人は道 (タオ) に従って生きていたのに、文明の進歩の過程で道を見失いました。そこで、仁や礼、仁義で人を縛りつけ、秩序を保とうとしたのが儒教だというわけです。
仁、礼、仁義などは、自由で生き生きとした本来の人間性を奪っていくと老子は言います。仁義を説く必要のない世の中をつくるべきだとするのが老子をはじめとする道家の考えです。

無為自然

賢明な生き方をしたければ、道に従えばよいと老子は言います。道に従うとは、無為自然であることです。無為自然であるとは、人が浅はかな知恵を絞って作り出した道徳や文化(たとえば礼儀、名誉、財産、文明、知識)などの価値に縛られず、自然の法則を参考にしながら生活することです。中でも水の性質が特に参考になります (上善は水のごとし)。

上善は水のごとし

賢明に生きるためには、水の性質を見習うべきだと老子は考えました。水は、こだわりなく形を変え、争うことはありません。
また、水は人の嫌がる低い方に流れ、そこにとどまります。
水は弱く柔和ですが、水を攻撃してもビクともしません。
水はあらゆる人の役に立っていますが、それに驕ることなく謙虚です。
水は静かで自分の功績を何も語りません。
水がこのような性質だからこそ、大切にされ、尊ばれるのだと老子は説きました(上善は水のごとし)

柔弱謙下

自然をよく観察すると、作用は反作用を生むことがわかります。たとえば柔らかく曲がる枝は、折れずにまっすぐに戻ります。
流れに抵抗すればとどまり、流れに任せれば遠くまで行くことができます。
高く尖っているものは削られ、低く平坦なものはそのまま存続できます。
作用・反作用という自然に備わる因果律を覚えておけば、威張ったり、目立とうとはしないはずです。そもそも、水のように本当に必要とされていれば、その必要性をみずから誇示する必要はありません(上善は水のごとし)。老子は他者と争わず、柔和で弱くあることは、結局は硬く強くあれるのだと説きました。このような人のあり方を柔弱謙下(じゅうじゃくけんげ)といいます。

学を絶てば憂いなし

「学を絶てば憂いなし」。中途半端な知識は持たない方が、迷いがなくなるという老子の言葉です。この言葉の後には「唯と阿と相い去ることいくばくぞ」と続きます。「はい」と答えても「うん」と答えても、大した違いはないという意味です。些細な礼儀の空しさをも説いています。
さらに「善と悪とは、相い去ることいかん」と続きます。善と悪に、どれほどの違いがあるのかと問いかけています。老子は人間が作為した価値観にとらわれることを拒否しています。

知足

老子は、足るを知る(満足することを知る)ことが大切だと言います(知足)。ほどほどを知っていれば恥をかくこともありませんし、危険な目にもあいません。
逆に、最高で最大の状態は大きな危険をともないます。容器いっぱいに水が満たされていれば、すぐに溢れるし、刃物も研ぎすぎれば折れやすくなると老子は説きます。大きな名誉や財産は、失いやすいばかりか、執着すればするほど、失ったときの落ち込みも大きくなります。

小国寡民

春秋戦国時代は、王たちが領土拡張のための戦争を繰り広げている時代でした。それにもかかわらず老子は、小さな面積で少ない人口の小国寡民の国の方が幸せだと主張しました。
老子が理想とした小国寡民の国には、厳しい規則や残酷な刑罰がないので、人々は国から出ようとしません。
争い事もありません。だから武器も必要ありません。
人々は農村に暮らし、自給自足で暮らしています。質素な食べ物や質素な暮らしを十分に楽しんでいます。
隣の国は、家畜の声が聞こえるくらいの距離にあります。けれども自分の国に満足しているので、行こうとは思いません。
老子は、足るを知る (知足) ことが平和な社会を成立させると言います。足るを知ることで満足できる人は、いつも満たされていて、幸せだと老子は考えました。

03.孫子孫武

兵家

諸子百家の一派である兵家の代表的人物が孫子(孫武)です。孫子兵法書である孫子は、戦争に勝つための戦略を冷静に説くものです。『孫子』の兵法は、現代人のビジネスや人生に「勝つ」ためにも有効だとされています。
・算多きは勝ち、算少なきは勝たず。
・疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し。
・兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧の久しきをみず。
・彼を知り、己を知れば、百戦殆うからず。
・怒りはまた喜ぶべく、慍りはまた悦ぶべきも、亡国はまた存すべからず、死者はまた生くべからず。
・百戦百勝は善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。
最良の方法は戦わないで勝つことで、百戦百勝は自慢にならないとしています。兵法書とはいえ、孫子はここで戦争の愚かさを説いています。

04.墨子

墨家

諸子百家に数えられる墨子を祖とする一派が墨家です。儒家が家族などの親しい人を優先的に愛すべきだとしたのに対し、墨子はそうした差別的な愛が、憎しみや戦争を引き起こす原因になると考えました。彼は儒家の思想を別愛(べつあい)と言って強く批判しました。
墨子は、自分を愛するように他人も身内も広く平等に愛するべきだと説きます(兼愛)。また他人を愛せば、他人も自分を愛してくれるので、お互いのためになるとしました(交利)。これを兼愛交利説(けんあいこうりせつ)といいます。

兼愛

儒家が、家族などの親しい人を優先的に愛すべきだと考えたの対し、墨子はそのような差別的な愛が、憎しみや戦争を引き起こす原因になると考えました。彼は儒家の序列のある愛情を別愛と言って強く批判します。
墨子は、自分と他人、身内と他人の区別なく、広く平等に愛するべきだと考え、これを兼愛と呼びます。そして、みんなが兼愛の気持ちを持てば憎しみや争いのない平和な世界になると説きました。
もし、墨子の兼愛の思想に「~主義」という言葉をあてはめるのなら、「世界の中の幸福の数が多いほど幸せな世界である(最大多数の最大幸福)」とする功利主義になります。
儒家孟子は、墨子の兼愛を動物の思想だと言って非難しました。兼愛の思想があまりに功利主義的で、人間の本質を取り違えていると孟子には思えたからです。

非攻

自国内で、人を1人殺せば死刑になるのに、多くの人を殺して他国を侵略すれば、英雄となります。これを矛盾だとして、墨子は非戦を訴えます。
侵略戦争は、自国にとって利益があったとしても、全体からすれば多くの死者を出すので、正義ではないと墨子は言います。領土拡張による自国の利益の獲得が正義だった時代に、墨子は世界全体に目を向けていました。
けれども墨子は、小国の大国に対する防衛戦は否定しませんでした。墨子をリーダーとする墨家の集団は、頼まれれば、命を犠牲にしてでも小国の防衛戦に協力しました。また、見返りを求めることもありませんでした。攻めることなく守りに徹したその姿勢は、非攻と呼ばれています。
助けを求める人を見捨てることになっても、「もし助けていたら自分が死んでいた」という理由があれば、咎める人はいません。けれどもそのような状況下で、あえて助けるという選択をした集団が、かつての中国には存在しました。

05.荘子

老荘思想

老子は、名誉や財産などに振り回されずに、自然の法則を参考にして生きることを道 (タオ) に従って生きることだとしました。一方、老子の考えを発展させた荘子は、善悪、優劣、大小などの区別を取り払い、自由に生きることを道に従って生きることだと考えました。老子は人為的な価値を否定し (無為自然)、荘子は万物の差異を否定 (万物斉同) したのです。老子荘子の思想を合わせて老荘思想といいます。

胡蝶の夢

ある日、荘子は、自分が蝶になって楽しく飛びまわる夢を見ました。
夢から覚めた荘子は、自分が夢で蝶になったのか、蝶が夢で自分になって いるのか、わからなくなりました (胡蝶の夢)。この世界は夢なのか、現実なのか。常識的には夢か現実かの区別は重要かもしれません。けれどもその区別を証明する確かな証拠はないのです。そうした区別にこだわることなく、自分が蝶であろうが、人であろうが、この世界が夢であろうがなかろうが、与えられた今を思う存分に楽しむべきだと荘子は説きました。

万物斉同

善悪、美醜、優劣、真偽などの区別 (差異) は人間特有の感覚や思考の産物だと荘子は考えます。人間が存在しなければ、宇宙には人間の感覚や思考による区別はありません。区別をすべて取り除くと、万物は1つになります。これを万物斉同といいます。究極的には「私」と「私以外のものすべて」は同一という考えに行き着きます。
真の世界 (万物斉同の世界) には、あらゆる価値に優劣はありません。だからこそ、他者と争ったりせずに、のんびりと気ままに生きるべきだと荘子は考えました。

朝三暮四

世界の本当の姿は万物斉同であることに、人はなかなか気づきません。どうしても善悪、美醜、優劣などの差異にこだわってしまいます。
世界のあらゆる差異は、人為的な「区切り方」の違いだけだということを朝三暮四という比喩で荘子は説明します。
朝三暮四・・・ある老人が、ペットの猿に餌のドングリを「朝3つ、夕方4つやる」と言ったら猿は不満そうに怒ったが、「朝4つ、夕方3つやる」と言ったら猿は喜んだ。差異など本当はないのに、差異にこだわってしまうのは人も同じ

無用の用

有用なものは、無用なものがあって成り立ち、無用なものは、有用なもの があって成り立つと荘子は考えました。一方がなければ、もう一方も成り立たちません。
万物は、有用か無用かなど、他のものと比較されるべきではなく、一つ一つが絶対的な価値を持っていると荘子は考えました。これを無用の用といいます。人生に起こる出来事にも価値の優劣はありません。出来事すべてを運命だと受け入れて、楽しむべきだと彼は説きました(運命随順うんめいずいじゅん)。

逍遥游

優劣、美醜、強弱、大小などの人間が作った差異にとらわれず、自由気ままに生きることを逍遥遊といいます。「曳尾(えいび)」という逸話から、荘子自身が自由な生き方をしていたことがうかがえます。
尾を泥中に曳く (曳尾)・・・財宝になっている亀の甲羅があるが、その亀も本当は泥の中で尾を引きずりながら生きていたかったに違いない。名誉より自由気ままに生きること

心斎坐忘

老子を祖とする道家は、道 (タオ) を説く学派です。老子の思想を引き継いだ荘子にとっての道とは、善悪、優劣、美醜、強弱、大小などの人為的に作られた区別のない場所(万物斉同)をさします。そして「道に従う」とは区別のない場所と一体化することをいいます。
道 (差異のない場所) と一体化するためには、心を空っぽにして、言語で区切られた善悪、優劣、大小などの差別をすべて忘れ、明鏡止水の境地に至る修養が必要です。このような修養法を心斎坐忘(しんさいざぼう)といいます。心斎坐忘によって明鏡止水の境地に至った人物を荘子真人(しんじん)と呼びます。
真人になれば、心の中の苦しみや不満がいっさいなくなり、真の自由を実感できるといいます。でも、真人になるのは少々難しそうです。善悪、優劣、強弱、美醜などの差異に、あまりにも敏感になりすぎないように心がける習慣をつけることが、少しでも真人に近づく方法だといえるかもしれ ません。

06.孟子

性善説

孔子の教えを継承した孟子は、「人は生まれながらにして善である」という性善説を唱えました。井戸に落ちそうな子供を見れば、誰もが助けようとするでしょう。人が生まれながらに持つこのような同情心を孟子惻隠の心と呼びます。
人が先天的に持つ善なる心は惻隠の心の他に、羞悪の心辞譲の心是非の心の4つがあり、孟子はこれらを四端と呼びます。そして、自分の四端をつねに意識することで伸ばしていけば、それぞれ、仁、義、礼、智という四徳を誰もが習得できると説きました。
四端(惻隠、 羞悪、 辞譲、 是非の心)人が生まれながらに持っている善の心 → 四徳(仁・義・礼・智)四端を伸ばせば四徳が完成する
①惻隠の心 人の不幸を見過ごせない心 → 仁
②羞悪の心 悪を恥じる心 → 義
③辞譲の心 お互いに譲り合う心 → 礼
④是非の心 善悪を見分ける心 → 智
かつて孔子は、人間にとって大切なものは仁という内面と、礼という目に見える態度だと説きました。後の荀子が礼という態度を重視したのに対して、孟子は仁という個人の内面を重視したといえます。

五倫五常

人間にとって大切なものは、仁という内面的な道徳と、礼という目に見える態度だと孔子は説きました。このうち孟子は、道徳を重要視しました。孟子の説く道徳は四徳と呼ばれます。後に、漢代の儒学者である董仲野が、四徳にを加えて、道徳の五常と呼びました。
また孟子は、個人の内面的な道徳である四徳とともに、人間関係の倫理についても考察します。人間の社会には、親子関係、上下関係、夫婦関係、兄弟関係、友人関係の5つの関係があると彼は考えました。そして5つの関係に対応する親、義、別、序、信という5つの倫理の存在が動物と人間社会の違いだと説きます。5つの倫理は明の時代に五倫と呼ばれるようになり、五倫と五常 (五倫五常) は儒教道徳の基本となっていきました。

仁義

孟子は、人が持つべき4つの徳(四徳)のうち、他者への同情心である仁と、悪に屈しない正義感である義を特に重要だと考え、仁義と呼びます。孟子の思想の中心は仁義という言葉にあります。
王が仁義に基づいて民衆の幸福のために努めれば、社会は安定すると孟子は考えました。また、仁や徳によって行う王道(政治)に対して、武力を用いて統治することを覇道(政治)と呼んで区別しました。法家や兵家など、直接役立つ主張をかかげる諸子百家が多い中で、孟子はあくまでも徳によって民を治める理想主義を貫きました。

大丈夫

孟子によれば、人は誰でも生まれながらにして、4つの善なる心である四端を持っています。四端をつねに心がけながら生きると、四端は仁、義、礼、智という四徳になっていきます。そして最終的に、四徳の完成を自覚すると、悪に屈しない毅然とした勇気である浩然の気が根底から湧き起こると説きます。孟子は浩然の気を身につけた人物を大丈夫と呼んで理想としました。

王道(政治)

王の人徳による国の統治を理想とした孔子徳治主義孟子も受け継ぎます。そして王の徳とは仁義のことであるとします。民衆が井戸に落ちそうならば、助けるような王でなくてはならないのです(性善説)。
王の仁義に基づく民衆本位の政治を王道(政治)といいます。王道を理想とした孟子は、王の利益のために武力で民衆を統治する覇道(政治)を強く批判しました。

易姓革命

古代の中国では、王の地位は天が下す命令(天命)によって決められるとされてきました。こうした天命論は王の統治を正当化するための理由づけだったといえます。天命が改まって王の姓が変わることを易姓革命といい ます。
けれども孟子は、天の意思は民衆の声に反映されると考えました。つまり覇道政治を行うような徳のない王は、民衆によって打倒されるというわけです。孟子は、易姓革命を民衆本位の革命と解釈し直して、民衆中心の政治を理想としました。
メモ:易姓革命とは、天の命が革まり、王朝の姓が易わること。『孟子』(梁恵王下)では、夏王朝の暴君桀王を殷の湯王が、殷王朝の暴君紂王を周の武王が放伐したことを正当化している。これを「湯武放伐」という

07.鄒衍

陰陽家

陰陽五行説を説く諸子百家の一派が陰陽家です。代表人物である鄒行は、儒教の関心が人間社会だけに限られていることに、儒教の視野の狭さを感じ取りました。人間社会の外側にある宇宙にも目を向けなければ、人間の本質はわからないと鄒行は考えたのです。
陰陽五行説とは、古くから中国に伝わる陰陽説五行説を合わせて、全宇宙の原理を説明するものです。陰陽五行説は後に儒教老荘思想にも取り入れられ、朱子学道教を生みました。
陰陽説・・・万物は陰と陽の気に分かれるという考え方
五行説・・・万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなり、互いに影響を与え合いながら変化するという考え方
陰陽五行説・・・陰陽説と五行説を合わせて、より複雑な説明をするのが陰陽五行説。中国の医学や科学、四柱推命占いなどの基となった。飛鳥時代に日本にも伝わり、平安時代安倍晴明によって陰陽道として発展した

08.蘇秦

縦横家

春秋戦国時代に、自国が生き残る策を諸国に説いてまわった諸子百家の一派が縦横家です。代表的人物である蘇秦は、ほぼ縦に並ぶ小国同士が同盟を組んで、大国の秦に対抗するべきだと説きました(合従策)。
後の張儀は、蘇秦とは反対に、小国が個別に(横に)秦と提携するべきだと説きました(連衡策)。小国が生き残るための合従連衡の考え方は、現在の外交政策にも生かされています。

10.許行

農家

11.公孫竜

名家

諸子百家の中でも、異彩を放つのが名家です。名家の代表的人物である公孫竜は、名前と名前に対応する実際の事物について考察しました。社会を安定させるためには、まず、「正義とは何をさすのか」や「徳とは何か」など、名に該当する実体をはっきりさせるべきだと考えたのです。
公孫竜は、白馬非馬説 (白馬論) で有名です。「馬」とは馬の形の概念をさし、「白」は色の概念をさします。そして「白馬」とは形と色の複合概念なので、形だけの概念である「馬」とは違うものだと彼は主張しました。ギリシャの哲学者が好みそうな、こうした論理を説く学派が名家です。
公孫竜は、「白」や「堅い」などの概念は実在すると主張します(堅白論)。この主張は、ギリシャの哲学者であるプラトン概念実在論イデア論と同じような論理です。
また、物自体と人間の認識は一致しないとするカントの認識論を先取りしたような論理も公孫竜は展開しています(指物論)
古代ギリシャの思想が「論理学」という大きな体系を生み出したのに対し、名家の思想は、理屈をこねた詭弁だとされて忘れられていきました。そんなところにも「西洋」と「東洋」の好みの違いを見て取ることができます。

12.荀子

性悪説

孟子の後にあらわれた儒家荀子は、孟子性善説を否定し、「人は生まれながらにして悪である」という性悪説を説きました。
人間は、放っておけば、欲望のまま好き勝手に行動してしまうと荀子は考えました。けれども社会規範としての礼を学び、実践することで、道徳を身につけることができると説きます。彼はこれを「人の性は悪にして、その善なるものは偽なり(人間の本性は悪であり、善は人的な作為によってつくられる)」と表現しました。
かつて孔子は、人間に大切なのは仁と礼だと説きました。このうち、仁の方を重視した孟子は、自分の内面を省みるだけで徳を身につけることができるとしました。これに対して礼を重視した荀子は、徳を身につけるためには、積極的に礼を学び、実践する必要があると考えたのです。
「人は先天的に善の心を授かってはいない」という荀子の教えは、文字通り、天 (神) の力の否定です。天は単なる自然現象であり、人間社会の法則とは関係がないと荀子は断言しました (天人の分)。荀子にとって、人々の精神的拠り所として、天に代わるものが、社会規範としての礼でした。

礼治主義

人間は、放っておけば、欲望のまま好き勝手に行動してしまうと荀子は考えました(性悪説)。けれども、王の指導の下、家庭や社会の中で礼を教育すれば、道徳が身につき、悪であった本性は善へと矯正され、社会は安定すると説きます。人間は十分に善になる素質があるというのです。荀子は礼の教育を重視する礼治主義を説きました。

13.韓非子

法家

韓非子をはじめとする法家は、法律による統治である法治主義を説きました。法治主義は、礼治主義と似ていますが、礼が養育や習慣に基づく規則であるのに対し、法は文書化された規則です。礼治主義は1つの狭い国には有効ですが、各国で常識が異なる多くの国を統治する場合は、法が必要です。戦国時代の一国であった奏は、法家の法治主義とともに、中国全土を征服していきました。

法治主義

人間は神様のように完璧ではないので、利己心を完全に取り除くことはできないと韓非子は考えました。そこで、すぐれた働きや成果には賞を与え、罪には罰を与える信賞必罰で国を統治する、法治主義を唱えました。法治主義は礼治主義と似ていますが、礼のように曖昧な規則ではなく、はっきりと文書で示された規則での統治をいいます。
法治主義は、法を守っていさえすれば、民衆の心の中までは関与しない主義だといえます。民衆を王の徳で感化することで、国の安定を目指す徳治主義とは、この点で異なります。
孔子 (儒家) 徳治主義 徳の感化で国を統治

孟子 (儒家) 王道政治 仁義の感化で国を統治

荀子 (儒家) 礼治主義 礼で国を統治

韓非子 (法家) 法治主義 法律で国を統治

15.朱子朱熹

四書五経

儒教は秦の始皇帝によって激しい弾圧 (焚書坑儒) を受けましたが、漢代になると再び見直され、国教になります。それにともない、儒教の基本書として四書五経が整備されていきました。漢代以降の儒教は、漢代以前の儒家の思想と区別して、儒学とも呼ばれます。 (四書は論語』『大学』『中庸』『孟子五経易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)

朱子学

儒教が国教になってから1000年以上たった宋 (960年~1279年) の時代になると、儒教は成立当時の意義が失われ、形だけになっていました。また儒教は、道教やインドから入ってきた仏教の思想に、理論的に対抗する必要も出てきました。
仏教や道教に比べて、儒教には、宇宙(自然)と人間がどのように関係しているかの理論が不足していました。それまでの儒教の関心が、人間社会に限られていたからです。
儒学者朱子 (朱熹) は、宇宙と人間の関係を説明するために、儒学の基本経典を一から読み直します。そして儒学を解釈し直し、朱子学と呼ばれる儒学を築きあげました。朱子学には、古くから伝わる陰陽説や五行説、さらには道教や仏教の思想なども取り入れられました。
朱子学は、中国の国家試験 (科挙) の公式テキストに採用され、儒教の正統となりました。また日本でも、江戸幕府の御用学問となりました。

理気二元論

宇宙に存在するあらゆるものはが組み合わさってできていると朱子(朱熹)は考えました。これを理気二元論といいます。
気とは、万物の物質をかたちづくる細かい気体状の粒子のことをいいます。
一方、理とは、天が決める自然の法則のことで、あらゆるものが「それそのもの」であるための原理です。つまり理は万物の本質を担当します。
そして人間の理は、人間が人間であるために守るべき道徳や秩序です。具体的には、仁、義、礼、智、信の五常をさします。
人間の理は、自然の法則であり、客観的かつ固定的に存在していると朱子は考えました。後の王陽明朱子学のこの部分に疑問を持つことになります。

性即理

朱子(朱熹)によると、万物は理と気からできています(理気二元論)。気が集まって形になった個物の中には、必ず理が備わっています。理は、各個物が、どのようにあるべきかを決めています。言い換えると理は個物の本質を決めています。理が決めた本質は善であるはずだと朱子は考えます。
人間にも生まれながらに理は備わり、個人の心の本質を決めています。理が定めた個人の心の本質をといいます。つまり朱子によれば、性(本質)とは理のことです。これを性即理といいます。
朱子によると、心とは、性と(欲望や感情)が一体になったものです。理に由来する人間の性は本質的には善です。ところが、私たちの肉体をかたちづくっている気が、心に作用して情を動かし、欲を生んでしまうのです。
気が欲を生まないようにするためには、理を学んで、気の暴走を抑制できるようにならなければなりません(居敬窮理)。朱子は、あらゆる物事を学び、理を知る人物を聖人と呼んで理想としました。

居敬窮理

人間の性には理が備わっているのですから、人間本来の性は善です。ところが、気が性をおおい隠すと、情がおかしな動きをして欲を生んでしまい ます。情それ自体は、いい動きも悪い動きもします。
自分の性に備わる理を明らかにして、性から気を取り払う実践的な方法は2つあります。1つは居敬という修養法で、日常のどんなときでも意識を集中させ、つねに心の安静を心がけるというものです。
居敬は道教の仙人修行や仏教の禅修行に比べると、社会生活を送りながらできる心の修養だといえます。
そしてもう1つが、理を窮めると書く窮理です。自分の外にある一つ一つの個物に備わる理を学問で窮めていけば、あるとき急に、万物に共通する理が明らかになると朱子は言います。それは自分の内にある理が明らかになるときでもあります。居敬と窮理を合わせて居敬窮理といいます。

格物致知

自分の外側にある個物の理を一つ一つ窮めていくことを窮理といいます。窮理を進めれば、あるとき、人と宇宙のすべてに共通する理を悟ることができる瞬間が訪れると朱子 (朱熹) は言います。それはつまり自分の中にある理を悟る瞬間でもあります。この瞬間を目指す探求を格物致知といいます。
けれども朱子は、個物の理を知るヒントは、すべて過去に書かれた書物である四書五経の中にあると考えました。よって朱子学が科学の発展に貢献することはありませんでした。

16.王陽明

陽明学

人間の理、つまり人間が人間であるために守るべき法則は、万物を貫く自然の法則であり、理は初めから客観的に存在していると朱子は考えました(性即理)。王陽明はこの考えに疑問を持ちます。
王陽明は、理は心そのものだと主張します。日常の出来事に対して、その都度、自分が善いと思う判断がそのまま理だと言うのです(心即理)。理は固定的なものではなく、主体的で生き生きとした心の状況に応じてつねに変化すると考えるのが、王陽明を祖とする陽明学です。一般的に朱子学は性即理、陽明学心即理の思想だとされています。

心即理

朱子は万物は理と気から成り立っていると考えました (理気二元論)。そして1つ1つの個物に備わる理を悟っていけば (窮理)、いずれ人間と宇宙のすべてを貫く理に到達できると考えました (格物致知)。つまり朱子にとって個物の理を知ることは自分の理を知ることにつながります。
そこで王陽明は、庭にある竹の理を考え続けましたが、ノイローゼで倒れてしまいました。そして自分の理は自分の外にはないと悟ります。
王陽明は、自分の理は竹の理のように固定的な自然の法則はなく、自分の心に備わっていると考えました。日常の出来事に対して、その都度自分が善いと思う判断がそのまま理だというわけです。
人間の心には、理が備わっているという意味で、人はみんな聖人です。備わっている理を実行すると、そこに善が生まれます。
朱子は心を、性と情が一体としながらも、理は性に備わると考えました。それに対して王陽明は、両者を区別せず、心そのものに理は宿っているとします。王陽明の考えを朱子の性即理に対して心即理といいます。王陽明にとっての理は、心を正しく持つことで明らかにできるものでした。

良知

人間が心を正しく持つことで、理は明らかになると王陽明は言います。というのも、人間の心には生まれつき良知が備わっていて、万物の正しいあり方と一体化しているからです。したがって、良知を通じて、心と物はつながっていることになります。
陽明は、人間が良知を発揮して、万物を正していくことを致良知(ちりょうち)と呼びます。良知を発揮するとは、日常の各場面で自分が善だと思ったことをそのまま実行することにほかなりません。

知行合一

朱子は、学問を非常に重んじました。そして、つねに論理的であ るべきだと考えました。対して王陽明は、いくら知識があっても、知識を基に、何か行動を起こさなくては意味がないと言います。真の知識は行動をともなうと王陽明は考えたのです。これを知行合一といいます。
知行合一の精神は日本にも渡り、倒幕運動の心の支えとなりました。