マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】浅田彰『逃走論―スキゾ・キッズの冒険』(ちくま文庫 1986年)

単行本は1984年。

目次

逃走する文明(『ブルータス』1983年1月号)

・人間にはパラノ型とスキゾ型の二つがある、という最近の説だ。バラノってのは偏執(パラノイア)型のことで、過去のすべてを積分=統合化(インテグレート)して背負ってるようなのをいう。たとえば、10億円もってる吝嗇家が、あと10万、あと5万、と血眼になってるみたいなね。それに対し、スキゾってのは分裂(スキゾフレニー)型で、そのつど時点ゼロで微分=差異化(ディファレンシエート)してるようなのを言う。つねに《今》の状況を鋭敏に探りながら一瞬一瞬にすべてを賭けるギャンブラーなんかが、その典型だ。
・もっとも基本的なパラノ型の行動=《住む》 もっとも基本的なスキゾ型の行動=《逃げる》
・さて、もっとも基本的なパラノ型の行動といえば、《住む》ってことだろう。一家をかまえ、そこをセンターとしてテリトリーの拡大を図ると同時に、家財をうずたかく蓄積する。妻を性的に独占し、産ませた子どもの尻をたたいて、一家の発展をめざす。このゲームは途中でおりたら負けだ。《やめられない、とまらない》でもって、どうしてもパラノ型になっちゃうワケね。これはビョーキといえばビョーキなんだけど、近代文明というものはまさしくこうしたパラノ・ドライヴによってここまで成長してきたのだった。そしてまた、成長が続いている限りは、楽じゃないといってもそれなりに安定していられる、というワケ。
・ゲイの語源=「陽気な」「お気楽」「しあわせ」「いい気分」「目立ちたい」
ジョン・ケージアンディ・ウォーホルウィリアム・バロウズ スキゾ・アートの巨頭
・こういうことを言うと、すぐパラノ・モラリストが現われて、家庭の崩壊を嘆いてみせたりする。そういうひとってのは、たいてい、妻を性的に独占することを主体としての自己の存立基盤にしてるようなひとなのね。そういえば、人が主とかいて住むとよむ、なんて文句があったけど、主体ってのはまさしくパラノ型の《住むひと》なのである。そういうひとはスキゾ型の《疾走する非主体性》に耐えられないもんだから、《主体としての自己の歴史的一貫性》なんかにしがみついてるんだけど、その家の地下室あたりでは、必ずやトラウマってヤツが、大昔のふかーい心の傷あとが、腐臭を放ってるんだ。
・サカタ・セクステット

ゲイ・サイエンス(『現代思想』1982年11月号)

・今日ゲイ・セクシュアリティ(悦ばしき性)というタイト ルはホモセクシュアリティの独占するところとなっている。けれども、彼らの性はほんとうに悦ばしきものと言えるだろうか。残念だが、とてもそうは思えない。ほとんどの場合、ホモセクシュアリティヘテロセクシュアリティの対立物として自らを一義的に規定しており、人々はその中で、ヘテロセクシュアリティにおいて男と女という役割にしがみつくのと同じような、いやそれ以上の偏執性をもって、こまかく特殊化された役割に固執している。それが無理を生ずるとき、事態は gay どころではなくなるだろう。実際、ゲイボーイの朝はこのうえなく sombre(憂鬱) だ。S/he は、鏡の中の化粧のはげおちた顔と向きあって、「早くから情事を知った少年はきまじめです」というジュネの言葉を反芻しながら、あれた唇をかみしめるほかない。
むしろ、ゲイ・ セクシュアリティは、ヘテロセクシュアリティでもホモセクシュアリティでもなく、便宜主義的なバイセクシュアリティでもなくて、トランスセクシュアリティとでもいったもののうちに求められるべきだろう。そこで重要なのは、一定の性であることではなく、多数多様な性――ケージがキノコについて語りドゥルーズ=ガタリが一般化しているような n sexes――になることだ。男になり、女になり、子供になり、さらには、動物に、植物に、鉱物になる。こうした多様多数な生成変化(なること)の線が、だれのうちにもひそんでいる。性においてそのすべてを一挙に肯定し、ありとあらゆる方向に走らせること。それによって性に軽さと速度を与え、既成の類型や役割から逃走させること。これがトランスセクシュアリティの戦略だ。そして、言うまでもなく、この戦略にたけた人々だけが、ニーチェのいうゲイ・サイエンス(悦ばしき知)を身をもって生き、真の意味におけるゲイ・ピーブルとなる資格をそなえているのである。
・『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』きのこ(ひとよだけ)に約80タイプの雄と約180タイプの雌が存在。

差異化のパラノイア(『広告批評』1983年3月号)

・製品に差をつけられないから、広告に差をつけて広告同士で争うことになる。
・これは体質や気質の差というだけのものじゃない。大体、こどもってのは最初はみんなスキゾ・キッズなんですよね。すぐに気が散る、よそ見する、より道する。ところが、近代資本主義社会ってのはあくなき蓄積をめざすパラノ・ドライヴによってはじめて動いてるわけだから、こどもたちを強引にそこへひきずりこんでいかなきゃならない。で、家族・学校・社会という回路を通じて、こどもたちをパラノ化していくわけ。だけど、何てったって人間の話だから、ベルト・コンベア式の工場みたいなわけにはいかないんで、出てきた結果を見ると、モロにパラノ型のひともいれば、けっこうスキゾ型のひともいる、ということなのです。
・背広=パラノ人間そのもの
・偏執狂タイプに=チリひとつ落ちてない部屋、異様にピッカピカの車、そしてこれが一番ブキミワリィけど、異常なまでに健康な家族やカップ
糸井重里、川崎徹
・病気/ビョーキ

スキゾ・カルチャーの到来(『月刊ペン』1983年4月号)

家族の病/家族という病

・ 神のように重々しい言葉を語る父と、大地のように豊かな包容力をもつ母という家族の理念型は無理。

エディプス的家族

・エディプス的社会=父(モデル或いはライバル)に追いつき、追い越そうとする社会

パラノイア/スキゾフレニー

・言うまでもなく、子どもたちというのは例外なくスキゾ・キッズだ。すぐに気が散る、よそ見をする、より道をする。もっぱら《追いつき追いこせ》のパラノ・ドライヴによって動いている近代社会は、そうしたスキゾ・キッズを強引にパラノ化して競走過程にひきずりこむことを存立条件としており、エディプス的家族をはじめとする装置は、そのための整流器のようなものなのである。
・こういうパラノ社会は、先に述べた通り、ある意味では非常に病的な社会である。しかし、活発な成長運動の中で競走過程がどんどん進行していく限り、社会はある種の動的な安定を得ることができる。それが近代における「正常状態」だったのであり、そのもとでパラノ・ドライヴを原動力とするめざましい進歩と成長がなしとげられてきたことは、否定すべくもない。その蔭では、極端なスキゾ人間が「異常者」としてとじこめられ、競走から落ちこぼれた者たちが容赦なく切り捨てられるという悲劇がくりかえし演じられてきたわけだけれども、圧倒的な進歩と成長のもとではそれが周縁的な事件の域を出ることはなかった。
・子どもたちがパラノ人間には不可解な行動をとるようになったのは、家族の病がもたらした徴候というよりも、エディプス的なバラノ・ファミリーという病からの逃走の開始にともなう摩擦なのだと言っていいだろう。
・昔は子供を家族が囲い込まなかった。家と家の間のメディア・スペースこそ、子どもたちの王国だった。

スキゾ・カルチャーの到来

少年マンガはプロが大衆向けにかく「大衆芸術」であるのに対し、少女マンガは大衆の一員が自分たちむけにかく「限界芸術」(「同縁芸術」)の色彩が強い。そこでは少女たちが少女たち自身にむけて多種多様なメッセージを送り続けている。
・ラジオの深夜放送、ビックリハウスなどの読者投稿

テクノ・ナルシシズムの罠

・メディアは意地悪く身をかわし続けたりはしない親切な鏡であって、テクノ・ナルシシズム・エージのひよわなナルシスたちは、それを相手に幸福な鏡像段階を生き続けるのである。幸福な、つまりは、外へ出るための葛藤の契機を奪われた、ということだ。こうしたエレクトロニック・マザー・シンドロームこそ、ソフトな管理社会をめざす権力にとって絶好の手がかりであり、ひるがえってみれば、スキゾ・カルチャーへ向かう道に仕掛けられた最大の罠であると言えるだろう。
一定方向のコースを息せききって走り続けるパラノ型の資本主義的人間類型は、今や終焉を迎えつつある。そのあとに来るものは何か。電子の密室の中に蹲(うずくま)るナルシスとありとあらゆる方向に逃げ散っていくスキゾ・キッズ、ソフトな管理とスキゾ的逃走、そのいずれが優勢になるかは、まさしく今このときにかかっているのである。

<対話>ドゥルーズ=ガタリを読む(今村仁司浅田彰現代思想』1982年12月号)

資本主義のダイナミズムをつかむ

・『アンチ・オイディプス』と『ミル・プラトー
・社会を熱い運動体としてとらえる
・資本主義のダイナミズムをさらに多様化・多形化していくという場合に最大の障害と考えられるのがエディプス的な家族である。これが、自由に多様化・多形化していくべきスキゾ・プロセスを、いわゆるエディプス・コンプレックスの「解決」という回路を通して一方向に水路づけているというんですね。近代資本主義社会はそれによってはじめて相対的安定性を保持しうる。だからエディプス的な家族と、それをいわば抽象的に神聖化したものであるフロイトの理論は、実際はこういう資本主義の相対的安定化と非常に深く絡み合っているのであって、これを破砕しないことには、流れの多形化・多様化は不可能なのだと。大体そういうところから資本主義とエディプス、そしてスキゾフレニーというパースペクティヴになってるんだと思います。

生成の哲学――弁証法との対決

・存在の哲学→生成の哲学(力と強度、あるいは運動と速度の哲学)
弁証法=スッキリしすぎ。周辺の多くのもの(動き)を取りこぼしている。

「諸機械」について

・機械=動的構造 二元論的対立をこえる構造概念 構造主義的な構造とは違う構造概念
・基本構造の等価交換(レヴィ=ストロース)ではなく、異質構造の異質的な結合ないし構造化 ズレ、転位・変位
アルチュセールの「重層的決定」と「構造的因果性」
・芝居(裏方と表舞台がある)のではなく工場。二元論→一元論

器官なき身体》について

器官なき身体ちびくろサンボのバター、強度、諸力の運動を総合し微分化したもの
・ある運動が極限に達したときに、その運動の自乗として静止状態の如きものがあらわれ、むしろそこから逆に全世界が構成されていく それはもはや形相・質料図式にはおさまりきらない、というよりむしろ、それに先立つようなウア・マテリー(原質料)≒ニーチェのいう「力への意志
器官なき身体=波動がその上を行き交うフィールド
ベルクソンの影響が非常に大きい 創造的進化 ホワイトヘッド『過程と実在』 超ひも理論
・今までの近代哲学 表象・劇場・構造 → ドゥルーズ=ガタリの哲学 生産・工場・機械

コード化と超コード化

・「ドゥルーズ=ガタリは現実を諸力の運動としてとらえるわけですが、この諸力というものを人間社会の位相でみた場合、それが「欲望」とよばれるわけです。したがって社会というものは欲望の運動パターンとしてとらえられることになる。これが単なる心理学的なものではなくて、今まで述べてきたような存在論的な含みを孕んだ欲望だということはいちおう押さえておく必要がある。さて、人間固有の力としての欲望というものは、ほっておけばどこへ向けて流れていくかわからないという危険を孕んでいる。そして、いたるところで多数多様な絡みあいをつくる、これが欲望機械ですね。それに対して社会的機械というものが、そういうアナーキーな動きをなんらかのかたちで安定化するメカニズムとして登場してくるわけです。その際、これまでの社会のほとんどがとってきた安定化様式は、位置を与えることによるスタティックな安定化であると言うことができる。その一つがコード化のメカニズムであり、もう一つが超コード化のメカニズムである。」
・コード化=贈与の円環
・「超コード化のメカニズムというのはそれとはまったく違います。コード化のメカニズムにおいては贈り手と受け手という立場は順ぐりに動いていくわけで、前に受け手であったものがこんどは贈り手になるわけですけれども、超コード化のメカニズムにおいては、絶対的な贈り手というのが超越的な次元におり、全員がそのようなメタ・レベルの存在に対して無際限の負債を負うということになる。この無際限の負債、埋めようのないポテンシャルの差が、流れを一方的に吸引しつづけ、システム全体を金縛りにして吊り支える。ですから、この絶対的債権者というのは、絶対の彼方にあるブラックホールみたいなものなのですね。それを形象化すると、神や王、あるいはラカンのいうような絶対他者になるわけですが、もう少し抽象化するなら、構造主義一般が暗に前提している 《ゼロ記号》ないし《超越的シニフィアン》だと言ってもいいでしょう。ともあれ、そうした超コ ード化の中心との関係において、各人が自らの位置をわりふられるという構図になるわけです。」
・ピエール・クラストル『国家に抗する社会』
・《交通》のネットワーク

脱コード化――欲望の駆動

・近代資本主義というものが、これまでの社会的機械とまったく違うのは、位置を与えることによるスタティックな安定化ではなくて、一定方向に走らせることによるダイナミックな安定化を行なうメカニズムだという点にあります。それはコード化でも超コード化でもなく、脱コード化によって動くメカニズムだと。
・今までコード化や超コード化のメカニズムによって辛うじて安定化していた欲望の流れが、脱コード化によって全面的な運動のなかに突っこまれることになる。ここで現われてくる問題は、従来の社会科学で言えば、アノミー論の問題ですよね。なんらかの安定した位置のシステムが脱コード化によってなくなってしまうと、人々は落ちつく場所がない、つまりノモスの喪失という事態が起こるわけです。これがいわゆるアノミーにつながらないためにはどうすればいいか。ここで、欲望を一方向に駆動してやるということが、唯一の、そしてまたきわめてみごとな解決として出てくるわけです。全員がお互いに追いつき追いこせということで、打って一丸となって一方向に走っている限りは、システムは相対的にではありますが、ダイナミックな安定を得ることができる。コードの剰余価値を流れの剰余価値に変換し、前進運動そのものの中に吸収していくことができる。そのような、いわば「赤信号をみんなで渡っている」システムが近代資本主義なのだと、大体そういう把握になると思うんですけれども。

属領化脱属領化・再属領化

・コード化=欲望を属領化 超コード化=欲望を脱属領化しピラミッド式に最属領化 脱コード化=欲望を脱属領化し、貨幣=資本の上に束ねていく

スキゾ・プロセス――絶対的脱コード化へ

・最終的には解放への展望をいかに得るかということにもかかわってくるわけですけれども、ひとつの前提としては、資本主義というのは、いま見てきたようにひとつの完結したシステムではない。したがって外部にある混沌のようなものの叛乱をいくら待ったところでどうにもならない、というか、そのような叛乱が日常的に起り、それによってシステムが日常的に組み換えられていくというダイナミズムこそが、脱コード化メカニズムとしての資本主義の本性である以上、秩序と混沌の弁証法というかたちで革新の見通しを得るというようなことはまったく問題外だということが最初に言えるのではないかと思います。
・資本主義というのは絶えざるコードの革新を本性としているのであって、安易に異質なものをとりこむとか混沌の叛乱を促すとかいうようなことでは、そのようなダイナミックスに寄与する結果にはなれ、けっしてそれを打ち破ることにはなり得ない
・近代資本主義社会とは、恐慌や戦争を頂点とするような形で死と破壊を常態化した、恐るべき社会
・近代資本主義の積極的な意味合い 多様性 最大の抑圧と、解放への最大の可能性とが、背中合わせになった段階 

パラノイアとスキゾフレニー

・スキゾフレニー 逃げることだがルサンチマンからは限りなく遠い戦略
ルサンチマン敗北を蒙り続けること、抑圧にじっと耐え続けることによってわだかまる怨恨を、ルサンチマンと呼ぶ。これこそ頑として主体の一貫性を支えていくエネルギー源なのである。

個体性の哲学としてのノマディスム

・自由ということは非常に大切なんだけども、いままで結局のところは本当の意味の自由じゃなかった。なんか蓄積主義で取り込み主義で儲け主義で、自分を豊かにすればそれで終りというような、そういう近代のイデオロギー的な個人主義があったけれども、そういうようなものはまったくのパラノイアふうと言える。それに対して、彼のいうノマディスム的な多様性のなかに、はじめて近代の自由論を超えるような新しい自由論、あるいは個体理論の展望が切り開かれている。こういうことはドゥルーズは直接には言ってないけれども、「ミル・プラトー」のノマディスム論以降を今までの思想史にひっかけて考えるとハッキリと言えるよね。
アルケー(根源にして原理)がないという意味でのアナルシー(アナーキー)。

分子革命とモル的革命

・旧左翼であれ新左翼であれ、革命もパラノイア的になってしまった。

自由への現実的な展望

中井久夫木村敏 分裂症
・資本主義による再属領化があるからこそ、スキゾフレニックな運動が病気というかたちでしかあらわれえないのだと。ならば、そのような資本主義による水路づけ自体を撤廃してしまうことによって、ユートビックな展望を開こうじゃないかという、その非常にエンカレッジングな力というものは高く評価すべきだと思います。悪口を言うのは簡単なんです。スキゾフレニックに走り回っていればいいというのは、要するに住まいを構えなくてもいいやつ、つまりガキの思想だとも言 えるだろうし、ある種の再生産と持続をどうしても必要とする生活というものを知らないような冒険や遊びの思想だとも言えるだろう。けれども、決してそれにとどまらないような現実的な展望をもっていることは見落とせないと思いますね。
デリダ脱構築とも近い
ドゥルーズたちの仕事の最も大切な論点というのは、そういう多様性やノマディスムを中心にした、伝統的な用語で言えば人間の本当の意味での自由の開花というものに向かっていかねばならないひとつの文化革命、あるいは文化についての考え方の根底的な変革、そういうことに焦点を定めた著作

ポップ哲学あるいは悦ばしき知
クリティックの終焉

・マルクーゼ、アドルノ 否定弁証法 
・今村 否定性を中心にしてものをみること、それを簡単に言ってクリティックというならば、ドゥルーズたちのあの書物の狙いは、思想の大きい流れであり、非常に重要なことだとぼくは思うんだけど、否定性を中心にして世界をみたり人生をみたりするのはもうだめだということですね。
浅田 暗いんですよね、根が。(笑)ニーチェ流の言い方をすれば「重力の魔」にとりつかれ、怨恨にむしばまれている。
・結局やっつける相手と同じ地平でしか動けないという側面があると同時に、人生を非常に暗くみてしまい、人生に対するベシミスティックな見方を、あるいはニーチェふうにいうとニヒリスムを一歩も抜け出ない。哲学的な思考様式のレベルでもいいし芸術運動でもいいし文学でも、その他社会科学を含めて、そういう否定性、クリティック、そういうものの考え方はもうやめようという力強い訴えがあるんですよね。
・革命主義者→保守主義者になったりする転向は 結局パラノイア的転向

マルクス主義ディコンストラクション(『日本読書新聞』1983年2月21日号)

読まれざるテクストとしてのマルクス
構造主義を超えて?

構造主義をふまえていっそうダイナミックな理論を構築しようとする試みがふえてきたの は当然である。けれども、そのうちの多くが、構造と構造に包摂されざる部分とを二元論的にとらえ、その間の「弁証法的相互作用」によってダイナミックスを説明しようとする、旧態依然たる思考様式にとらわれていることは否定できない。かくして、秩序/混沌、中心/周縁、表層/深層といった古色蒼然たる概念対が持ち出され、おなじみの弁証法の舞台にかけられるというわけだ。その典型はサンボリック/セミオティックの弁証法を中心とするクリステヴァの理論だろう。
フレドリック・ジェイムソン アルチュセール マイケル・ライアン『マルクシズムとディコンストラクション

決定不能性と実践

ぼくたちのマルクス(『中央公論』1983年5月号)

26歳のマルクス

・1844年5月5日パリ ルーゲらとともに『独仏年誌』失敗 『経済学・哲学草稿』 エンゲルスとの出会い『聖家族』
・45年パリを追放されブリュッセル 『フォイエルバッハに関するテーゼ』『ドイツ・イデオロギー
・この原稿を書いている浅田彰26歳の誕生日 マルクスとの落差を感じる 

ドイツという閉域

・『独仏年誌』に出たマルクスの論文2つ。『ユダヤ人問題によせて』『ヘーゲル法哲学批判序説』=ヘーゲル弁証法の枠内、形而上学の閉域

交通という概念

・初期マルクス 疎外論 → コスモポリタン的思想 → 唯物論 人間的ヴェーゼン → 現実的ヴェーゼン(社会的初関係の総体)
ホーリズム(Holism)=ある系(システム)全体は、それの部分の算術的総和以上のものである、とする考えのこと。あるいは、全体を部分や要素に還元することはできない、とする立場。全体論。/アトミズム
・言うまでもなく、マルクスにとって重要なのは、関係主義的に「世界を解釈する」ことではなく、新たな関係の線を引くことによって「世界を変える」ことだった。関係の冒険。《外》との接触

私は世界市民
まじめさと機智

マルクスのユーモア 爆笑する家族

本物の日本銀行券は贋物だった(『ブルータス』1983年6月15日号)

・自明性からの脱却
・ギャンブラーとしてのケインズ
・彼(ケインズ)を含め、近代人ってのはみな、開いたようで閉じた《クラインの壺》にとらわれて、資本の無限回路を走り続けるよう強いられてる。そこから脱出して、誰もがありとあらゆる方向に自由な運動を展開できるようにすること。アイロニーの影をふりはらって、真に悦ばしい脱近代(ポストモダン)の遊戯空間をきりひらくこと。
ケインズマルクスの中にあるこういう面ってのは、ケインズ主義やマルクス主義って形に固定できないのね。そもそも、かつて知は金だといわれてたわけだけど、金が王座に安住してられなくなった現在、知だって確固たる原点をもとに体系化されることなんかできやしない。だけど、逆にいえば、それは知をギャンブルとしてたのしめるようになったということでもあるわけ。ホント、金みたいに微動だもせず重苦しくのしかかってくる「学問」や「主義」なんて、もうアキアキだよね。むしろ、ニセ金のように、あるいはギャンブルのチップのように軽やかに運動する知と戯れてみたい。その中で脱近代の可能性をかいまみられるなら。その一瞬の可能性に賭けることこそ、知のニセ金作りの心意気なのだった。というわけで、どうです、あなたもひとつ賭けてみませんか?

<共同討議>マルクス・貨幣・言語(柄谷行人岩井克人浅田彰現代思想』1983年3月号))

差異としてのマルクス

柄谷行人マルクスその可能性の中心』(1978)
ディコンストラクション脱構築)=著者が自らの意に即して語っていることではなく、思わずも語ってしまうことを読み取る技術。
ゲーデルの「不完全性定理
・テレンバッハが、うつ病というのは本来なら順序があってやっていけるものが同時に全部やってくるために何もできない状態だと言っていますけど、ぼくはいまのところそういう状態ですね。さらにベイトスンの考えで言えば、分裂病というのはそういうダブル・バインドから絶えず逃走し続けることです。

新古典派の微細な差異

・価格はどのようにして決まるか

「商品の集合」と形式化の問題

・価値形態論 貨幣が全商品の奴隷であり、かつ主人であることによって システムが完成される 記号論(言語論)の《ゼロ記号》と同じ
・フランスの数学者集団ブルバキ 数学の構造主義 カントール集合論 ラッセルの「ロジカル・タイプ」 フーコー『言葉と物』ヴェラスケス「侍女たち」

《ゼロ記号》の形而上学

・「自己言及性」を排除してしまえば「構造」や「体系」は簡単につくれる。そうなってないのがフロイトのモデルであり、マルクスもそうなんですね。
・オント・テオ・テレオロジーオントロジー(存在論)・テオロジー(神学)・テレオロジー(目的論)の三位一体であり、存在・神・目的という不動の根拠のもとに全世界を包摂しようとする西洋形而上学の核心
・内と外、表層と深層、秩序と混沌、あるいは意識と無意識といった二項図式=本来は二項図式ではない。メビウスの帯メビウスの帯を8の字形にして押し付けたもの。そのくびれの部分が一応の「境界」になるが、じつは連続している。
マルクスが人為的に構成してみせた構図、つまり《ゼロ記号》がメタ・レベルに留保されていて、それがオブジェク ト・レベルの構造を吊り支えているという構図こそが形而上学なのだ、オント・テオ・テレオジーなのだと言うことができる。《ゼロ記号》こそ超越的中心をもっとも純化したかたちで示すものなんですね。それは、オブジェクト・レベルにおいては「それ自身の場所に欠けている」がゆえに、かえって、いたるところを経巡り、構造の全体に遍在することができる。それによって構造を包摂し、媒介のエレメントとして働くことができる。これはいわば4×4の正方形のなかで1から15の数字を並び換えるゲームにおける空いたマスのようなものであって、「不在」であり「空虚」であるからこそけっして壊されることなく構造内を循環することができる。
・『ルイ・ボナパルトブリュメール18日ナポレオン3世=《ゼロ記号》
・議会=リプレゼンテイション=表象=「差異の戯れ」

マルクスディコンストラクション

デリダレヴィ=ストロース流の構造主義こそが観念論の現代的形態であって、それは《ゼロ記号》の形而上学によって支えられてると考えているわけです。デリダはそれを「ディコンストラクト」するために、いわばマルクスが貨幣を「ディコンストラクト」したようにレヴィ=ストロースの「浮遊するシニフィアン」(《ゼロ記号》)を「ディコンストラクト」している。
・価値形態論=マルクス経済学の最も基本的な理論の一つ。商品は価値と使用価値という2要因から成るが,商品の価値は他の商品の使用価値との関係でしか表現できないというメカニズムから出発して貨幣形態の生成を解明する理論。

マルクスケインズ

ケインズマルクスと同じく、経済を3次元的(動的)に捉えていた。

茶番の反復としての資本主義
剰余価値――差異のエクスプロイテーション

シュンペーターイノベーション
・内なる遠隔地としての「労働者」から「剰余価値」をエクスプロイト(搾取)する
・時間的な遅れ、空間的な距離 

「価値」の系列・「価格」の系列

・浅田 だからいつも言ってるけど、「資本主義は一つの構造だ」というのはまずくて、構造を絶えざる技術革新によって組み換えていかなければいけないという強迫的な運動過程なんです。
岩井 まさにスキゾフレニックなプロセスであって、システムじゃないんですよね。
浅田 いや、スキゾフレニックな能力をパラノイアックに回路づけてるわけ。絶えず新たな「差異」をつくってはそれを運動エネルギー源としてエクスプロイット(搾取)し、少しでも前に進んだって喜んでいるわけですからね。
マルクスという人はそういうダイナミズムをよく見てたと思うんです。さらに、それを何らかのかたちで乗り越えるという「解放」のストーリーを語った人でもあるわけです。

「交通」または「ユダヤ性」について

ユダヤ=交通

《外部》と「発生」の問題

アメリカ=イスラエル

マルクスのユーモア

ルサンチマンとユーモア 元気が出るかどうか 

ディコンストラクションリゾーム

・どんなにネガティヴであっても、人を元気にさせるものがある。
・浅田 いま二流の「ディコンストラクショニスト」というのは、そういうものが何もなくて「退屈ごっこ」ばっかりやっていると思うんですよ。「あらゆる終わりのあと、しかし破局はこない」という時間を延々と繰り延べているだけで、何らエンカレッジングなパワーもないし、いわば資本主義の非常に貧しいミメーシスになっているわけです。
ぼくがドゥルーズたちを評価しているのは、マルクス的なところがあるからなんですよ。歴史の図式なんかつくるわけでしょう、「近代」はこうであって「脱近代」はこうやってとか言って。いまどきよく言うぜこいつら、(笑)というわけで、枕を殴って喜びながら読んでるのね。(笑)

リゾームとしての「実践」

・柄谷 マルクスが言う「真理は理論によって確認されるのではない。実践によってだ」というテーゼでいえば、「実践」というのはヤケクソでムチャクチャな非方向的なもので、とにかくそういう線を引いてみるほかないということだと思う。ドゥルーズの考えもそういうものでしょう。
岩井 「証明」できないものを逆にとことんまでやるというのが、マルクスの言う「実践」。
・浅田 マルクスでもドゥルーズ=ガタリでもものすごくザックバランな本ですよね。アッケラカンと論旨明快に書いてあって、「何だこいつら」と思うことさえあるわけでしょう。そのことと思考に活気を与えるということは何ら矛盾しないわけです。
・「物語」をバカにしてはいけない。

ツマミ食い読書術

・気軽にチャート化してカードにしちゃうこと。

知の最前線への旅(『ブック・ガイド・ブック 1983』河出書房新社

構造主義→構造とカオスの弁証法ポスト構造主義脱構築

N・G=レーゲン『経済学の神話』

エントロピー法則

今村仁司『労働のオントロギー

フーリエの再評価

栗本慎一郎『ブタペスト物語』

・ポランニー家伝説、ルカーチフォン・ノイマン

山本哲士『消費のメタファー』

イリイチの文明批判

柄谷行人『隠喩としての建築』

・自己言及性、建築の土台

山口昌男『文化の詩学Ⅰ・Ⅱ』

・秩序と混沌の弁証法アポロンディオニュソス、祭り 

蓮実重彦『映画 誘惑のエクリチュール

・フィルムとビデオ、映画とテレビ

あとがき

・雑多で支離滅裂な本
10/11読了
 

要約・感想

◆要約:ゲイ・サイエンス=悦ばしき知。ドゥルーズ思想の紹介。マルクスの思想にもまたドゥルーズと共通する部分がある。軽やかに生きることのすすめ。
◆感想:非常に面白かった。
これは時代を象徴する本だと思う。
この本の、そして浅田彰の功罪ということを考える。
功は、日本の80年代という奇跡のスキゾ・キッズの時代を開花させたこと。
フジテレビの「軽チャー」路線、西武パルコ文化、YMO、俺たちひょうきん族夕焼けニャンニャン
ファミリーコンピューターパソコン通信、数々のおたく文化、などなど。
爛熟した高度消費社会。底抜けに軽薄で底抜けに明るい。
日本が世界の最先端を行っていた時代。
浅田彰の言論が、その文化を肯定し、後ろ盾となった力は大きかったと想像する。
罪の部分は、そのネタがベタになり、ある意味自覚的にやっていた振る舞いを前提も何も踏まえない層が出てきて、
パラノイアックにスキゾ的に振る舞う層が出てきたこと。
つまり、ネオリベインフルエンサーとか。
新自由主義を招き入れる下地になってしまった。
でも、罪と言ったが、物事には必ず良い面と悪い面、作用と反作用があるし、
浅田彰はすべてお見通しだった。
歴史上類のない軽薄で面白い文化を一瞬作り出したが、不況とバックラッシュによって、
終わってしまった。
あれが躁の時代としたら、いまは深い鬱の時代と呼べるかも知れない。
自分に引き付けて考えると、この20年くらいの自分はパラノイアックすぎると思うし、まさしくルサンチマンに閉じこもっているとも思うので、
この思想をもっと取り入れる必要があるかもしれないと思った。
 
資本主義自体が巨大な躁病患者のようだと思った。
ある一部の層はそれに「あてられて」みずからも躁になり、
大多数は同じくそれにあてられて、エネルギーを吸い取られて鬱になる。
80年代のスキゾキッズもその後ほとんどが鬱になる。