マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

【読書メモ】ジグムント・バウマン著、森田典正訳『リキッド・モダニティ――液状化する社会』(大月書店 2001年)

原書は2000年。
目次

序文――軽量で液体的であること

・人間の相互依存、相互責任を支える絆として、「金銭的つながり」だけを残す。経済中心の行動規則、経済中心の合理性基準にたいして無抵抗にする。
・道具的理性(ウェーバー)、経済の絶対的役割(マルクス)。人間生活すべての局面で経済が支配的となる。
液状化の力は「体制」から「社会」へ、「政治」から「生活政治」へおよび、社会生活の「マクロ」段階から「ミクロ」 段階へと降りようとしている
・われわれの生きる近代は、同じ近代でも個人、私中心の近代であり、範型と形式をつくる重い任務は個人の双肩にかかり、つくるのに失敗した場合も、責任は個人だけに帰せられる。
・ポスト・パノプティコン時代=監視塔に人間が要らなくなる、無人爆撃機、自己制御ミサイル
・今日、戦争はますます(クラウゼヴィッツの有名な公式「戦争は他の手段を用いて継続される政治的交渉に他ならない」をいいかえるなら)「世界自由貿易振興の特殊な手段」であるかのようにみえてきている。
・流動的段階の近代では、遊牧民的、超領域的エリートが、定住型の多数派を支配する。遊牧的往き来に道をあけること、残った検問所を全廃することが、政治や、クラウゼヴィッツが「政治の延長」と呼んだ戦争の、大目的となったのである。
・現代の世界的エリートは、昔の「不在地主」に似ているといえよう。かれらは運営、管理、福利の負担なしに、また、「啓蒙」、「改革」、道徳的勇気の付与や、文明化に責任をもつことなしに支配できる。支配下の人々の生活に積極的に関与する必要はなくなった(むしろ、あまりにも高くつくうえに、非効率的だとして、関与は避けられている)。
・ロックフェラー→ビル・ゲイツ 土地に縛られない 新しい権力の軽量性、流動性 
・社会的崩壊は、権力が非関与と逃走を、テクニックとして使ったことの結果であるとともに、権力を成立させる絶対条件でもあった。権力が自由に流動するためには、柵、壁、守られた境界線、検問所が世界から消滅しなければならない。社会的絆の目のこまかく、しっかりしたネットワーク、とりわけ、領土にかかわるネットワークは、かたづけねばならない障害物だった。

1.解放

・ヘルベルト・マルクーゼ「現在、または、現状にかんするかぎり、われわれは歴史的にみて、ユニークな状況に直面しているといえるだろう。なぜならば、われわれは、今日、豊かで、強力で、機能的欠陥のない社会から解放されねばならないからだ……。われわれの直面する問題とは、人間の物質的欲求、そして、文化的欲求を満たした社会、あるいは、あるスローガンになぞらえれば、富を人口のさらに底辺まで分配することのできた社会から、われわれは解放されなければならないということである。これは、大衆が解放を望んでいない社会からの解放を意味する。」
ショーペンハウアー 自由=欲求と想像力と行動の可能性の三者のバランス 欲求と想像力を抑えるか、行動の可能性を拡大するか
・人々のおかれた位置が、「客観的」満足からほど遠いにもかかわらず、その位置に満足することは、おこりえないことではない。また、奴隷状態で生活していながら、自由だと感じ、それゆえ、解放の欲求を経験せず、ほんとうに自由になる機会を放棄してしまうことも、ありえないわけではない。
・自由の行使には苦労がともなうので、人間は不自由のままでいたいのではないか、解放の展望などもつことさえ嫌なのではないか、という説もある

自由は祝福か呪いか

・リオン・フォイヒトヴァンガー「オデュッセウスと豚――文化に対する不安」キルケーによって豚に変えられた水夫たちが人間に戻るのに抵抗したエピソード=豚のままでいたい
・マルクーゼの告発には、同情と侮蔑が両方ふくまれる。大屋雄裕「自由か、さもなくば幸福か」問題
・「中産階級化」=「富めること」の「属すること」へのすりかえ、「属すること」の「ふるまうこと」へのすりかえ
「大衆文化」=娯楽と気晴らしへの欲望をうえつける、「文化産業」による集団的脳損傷
エミール・デュルケーム「個人は社会に服従し、この服従が個人の解放の条件となる。人間の自由は非知性的で、盲目な肉体からの救済によってかちとられる。人間は肉体の力に、社会の偉大で知的な力をぶつけ、その庇護の傘の下にはいることで、救済される。社会の翼の下にはいれば、ある程度社会に依存することになる。しかし、これは解放的依存であって、矛盾ではない。」
・規範は拘束であると同時に可能性でもある。それにたいして混沌は純粋で完全な拘束である。
・リチャード・セネット「ルーチンは卑しいものかもしれないが、人間を守ってくれる」
・自由が達成されすぎて、共同体は溶けた

批判の盛衰

現代社会特有の「批判にたいする寛大さ」は、オートキャンプ場という仕組みの寛大さに似たものでしかない。
★液体的近代社会(リキッド・モダニティ)における批判にたいする寛大さも、このオートキャンプ場に近い。秩序に執念を燃やしていた、いま現在とは別種の近代が懐胎し、それゆえ、解放という目的を色濃く反映した古典的批判理論は、アドルノとホルクハイマーによって完成された。このときの古典的批判理論が対象としていた社会のモデルは、現在の批判理論の対象とするモデルと決定的に異なる。古典的批判理論のなかの社会とは、制度化された規範、慣習化した基準、義務の割り当て、行動の管理と、健全な経験的理性による批判意識がくみこまれた、いわば、家庭のようなものであった。われわれが生きている社会は、批判にたいして、オートキャンプ場の管理人が利用者に寛大であるようなかたちで、寛大であるだけで、批判理論の創始者たちのような批判には、けっして寛大でいられないはずである。ふたつの、ある程度関連した用語を使って、この状況をいいあらわすとすれば、さしづめ、「生産型の批判」が「消費型の批判」にとってかわった、とでもなるだろう。
・従来の近代社会→現段階の近代社会 重厚→軽妙 固体的→流動的・流体的・液体的 凝縮的・体系的→分散的・拡散的 フォード主義式工場や官僚性
・批判理論 個人的自由が日常的反復の鉄の鎖から解き放たれるときを、また、個人が全体主義、均質主義、均一主義的社会の鋼鉄のしばりから救出されるときを、人間解放の究極のポイント、人間的みじめさの終着点、使命達成のクライマックスとみた。ジョージ・オーウェル1984
マックス・ウェーバー「充足の先延ばし」→近代人が充足をまったく知らない 
・近代のアイデンティティとは、近代は永遠に完成を迎えない、ということである。
・第一に、初期近代の幻想が、漸次、崩壊、衰退していったこと。この幻想とは、進歩に終りがあり、歴史に獲得可能な目標があり、あす、来年、来世紀には完璧さが達成され、公正で平和な社会が、部分的なりとも、形成されるだろうという信念だった。また、需要と供給の安定した均衡が保たれるときがくるという信念、すべてが適材適所にぴったりおさまった完全な秩序が到来するという信念だったさらに、知るべきものをすべて知れば、人間の行動はすべて明確に究明され、未来が完全に人間の手中に掌握されれば、人間のおこなう仕事からは、あらゆる偶然性、不確実性、予想外の結末が消えるだろう、という信念だった。
・そして、第二の根本的変化は、近代化の目標と義務が、規制緩和され、民営化されたこと。理性はかつて人類共通の天稟、遺産だと考えられていたわけだが、理性によって担われる仕事は、いま、分割されて(いわゆる「個人化され」)、個人の勇気とスタミナ、個人的才能と、手腕にまかされることとなった。社会全体が責任をもち、規則や規制によって進歩を達成しようという試み(あるいは、現状維持を許さず、さらなる近代化を達成しようとする試み)は、完全に消えはしなかった。しかし、進歩の主な担い手(さらに重要なことに、責任の所在)は個人に移った。そして、倫理的・政治的言説の中心が、「公正な社会」 建設から、個人的差異の尊重、幸福と生活様式の自由選択を保障した「人権」へと移行したことに、この宿命的変化は反映されている。
・ニュー・ビジネス精神の伝道師ともいえるピーター・ドラッカーが、「社会による救済はもはや存在しない」と宣言したことは、よく知られている。「社会などというものは存在しない」と、さらに冷淡にのべたのはマーガレット・サッチャーだった。ふりむくな、お上に期待するな、自分自身の内側だけをみろ、そこには、生活の進歩に必要な資源のすべて、個人的才能、意志、能力がみつかるのだから、ということである。

市民と戦う個人

ノルベルト・エリアス『個人の社会』
★簡単にいえば、「個人化」はアイデンティティを、「あたえられるもの」から「獲得するもの」に変え、人間にその獲得の責任、獲得にともなって生じる(あるいは、付随する)結果の責任を負わせることからなる。
・「近代的個人化」といういい方は、同義語の繰り返しにすぎない。近代化、個人化について語ることは、まったく同じ社会状況について語ることでもある。近代の到来によって、身分の他律的決定の時代は去り、衝動的、強制的自己決定の時代にはいった。
・身分社会→階級社会(初期近代)
・いまや、個人が新しくおさまるべき場所は、準備されておらず、たとえあったとしても、居場所としてはまったく不十分で、個人がおさまりきるまえに消えてしまうような、たよりない場所でしかない。それはちょうど椅子取りゲームの椅子のようなもので、形もスタイルもまるで違い、数も場所も刻々と変化する。人間は椅子取りゲームの椅子のような場所を求めて、つねに右往左往しつづけ、そのあげく、どんな「結果」も、安息もえられず、鎧をとき、緊張を和らげ、憂いを忘れることのできる最終目的地に「到達」したという充足感ももてない。
・宿命として誕生した個人と、自己実現能力を現実に有する個人のあいだの距離は、確実にひろがっている。
個人は市民の最大の敵である、というようなことをド・トクヴィルはのベている。市民とはみずからの幸福を、都市の平和と発展をとおして実現させようとする人間であり、これにたいして、個人とは、「共通の大義」、「共通の幸福」、「正しい社会」、「公正な社会」といった概念に、慎重で、懐疑的で、無関心な人間である。
・個人が「公権力」に望み、期待するのは、ただふたつだけである。ひとつはやりたいことが、やりたいとおりにやらせてもらえるという「基本的人権」の確保。もうひとつは、それを安心してできるという保証。それには肉体と財産が守られ、犯罪者、犯罪者予備軍が刑務所にとじこめられ、強盗、性犯罪者、物乞い、その他あらゆる種類の迷惑で有害なよそ者は、町から閉めだされねばならない。
・個人形成の背後では、市民性が浸食され、ゆっくりした解体をつづけ ている。『エスプリ』誌の編集のひとりであるジョエル・ローマンは、その著作 (『個人の民主主義』1998年)で、「警戒は商品管理へ堕し、公的関心はエゴイズムと隣人恐怖の集合体でしかなくなった」、と指摘している。ローマンは「共同でものごとを決定する能力」(これが現在に欠落しているのはあきらかだ)の復活を、読者に強く訴える。
・個人が市民の最大の敵であり、個人化が市民性、市民ベースの政治に障害となっているならば、その理由は、個人的関心や興味だけが公的空間を占領し、それ以外の関心を公的言説から閉めだすからだ。「公(おおやけ)」は「私(わたくし)」にのっとられ、「公的関心」は公的人物の私生活への興味へと堕落し、公的生活の模範は、個人生活の公開、あるいは、個人的感情の公表(それが私的であれば私的であるほどよかった)によって代行されることとなった。こうした矮小化、すりかえ、堕落に毒されていない「公的問題」はもはや考えられない。
・リチャード・ セネットがくりかえし指摘するように、現代社会では個人同士の私的親密さが貴重とされ、それが「共同体建設」の唯一のよりどころとなる。こうした建設の仕方からは、焦点の定まらない、とりとめのない感情と同じ、もろくて、はかない共同体しか生まれず、それは目的地から目的地へあてどなくさまよい、安定した停泊地をもとめて永遠の漂泊をつづけるよう、運命づけられている。
・また、別のいい方をかりれば、共通の不安、心配、憎悪からなる共同体は、いわば、「洋服掛け」であって、個人的不安をもった人間が、その不安を同じ洋服掛けにひっかけることによって、一時的に成立する。
・「エゴの独房」に入れられた個人達
・個人化は多くの人間に、実験の機会をもたらしたが、同時に、結果をひきうける責任も生んだ(「ギリシア人を恐れよ、贈り物をもったギリシア人はとくに恐れよ」というウェルギリウスの有名な一節を思いおこさせる)。自己実現の権利と、自己実現を可能としたり、不可能としたりする社会環境を管理する能力との大きな落差が、流動的近代の主要な矛盾である。

個人社会における批判理論の苦悩

・近代化の衝動は、いかなるかたちであれ、衝動的現実批判である。同じ衝動を個人にあてはめれば、自己嫌悪的な衝動的自己否定となる。形式上の個人であることは、不幸をだれのせいにもできないこと、挫折をみずからの怠惰以外のせいにできないこと、救済手段を努力以外にみいだしえないことを意味する。
・自己嫌悪、自己否定と、日々、となりあわせに生きるのも容易ではない。個人の目はみずからの行動だけに向けられ、個人的存在の矛盾が生成される公的空間に向けられることはない。…有効な解決がなされないなら、虚構でもいいから、解決法を探さなければいけない
・局面は変わったのだ。それにともなって、批判理論の任務も180度転回した。批判理論のかつての任務は、個人的自立を「公共領域」の侵攻から守ること、非人間的国家の強力な抑圧、官僚制、小官僚制の触手から守ることであった。批判理論のいまの任務は、公共領域を防御すること、別のいい方をすれば、空になりつつある公的空間を改装し、人を呼び戻すことにある。公的空間からは「社会的関心のある市民」が消え、同時に、真の権力が「外部空間」へ流出しているからである。
・もはや、「公」が「私」を占拠しようとしているとはいえない。あべこべに、個人的関心、嗜好、悩みの範疇からすこしでもはずれるものを排除、除外する後者が、前者の領域をおかしている。みずからの運命はみずから決定できると再三再四教えられた結果、人間は個人の枠をこえたもの、個人的能力をこえたものに、(アルフレート・シュッツがいうところの)「さしせまった重要性」を認めなくなった。それらに重要性を認め、それらにしたがって行動することが、市民のトレードマークだったにもかかわらず。
★権力は町や市場、集会所や議会、地方政府や中央政府、市民の手のとどく範囲をはるかにこえて、コンピュータネットワークという非領域的領域へ移った。権力の戦略的鉄則は逃避、回避、不介入であり、理想的環境は不可視性である。
・以上のように、公的空間からは公的な問題が消えつつある。個人的悩みと公的問題の出会いと対話の場としての役割を、公的空間は果たしえなくなった。個人化の圧力をうけた結果、個人はしだいに、そして、確実に、市民性の鎧を剥奪され、市民としての能力を没収されはじめている。目下のところ、形式上の個人が事実上の個人(真の自己実現に不可欠な条件を保有する個人)に変身する可能性は皆無に近い。市民にならずして、形式上の個人は事実上の個人とはなりえない。また、自立した社会なくして、自立した個人は存在しない。そして、自立した社会は意識的、計画的な自己形成をへて成立するのであって、それは構成員の集団的努力によってのみ可能なのである。
・「社会」と個人の自立はつねに曖昧な関係にある。社会は個人の敵であると同時に、個人の存立の必須条件でもある。この曖昧さがもたらす利益と危険性のバランスは、現代にいたって大きく変化した。社会は実体なき自立を、実体的自立、真の自己実現能力につくりかえようとする、必死のむなしい努力に必要とされながらも、その努力にふくまれることがない。
・簡単にいえば、これが批判理論、さらに一般的には、社会批判の陥った苦悩である。批判理論と社会批判のあらたな課題は、個人化と、権力と政治の遊離によって破壊されたものを復元することにある。別のいい方をすれば、いまはひと気がほとんど絶えた公共広場(アゴラ)を、個人と集団、私的幸福と公的幸福の出会い、討論、交渉の場として設計しなおし、ふたたび人々でいっぱいにすることにある。人間の解放を目的としていた批判理論に、いまできることがあるとするなら、それは形式上の個人と、事実上の個人のあいだにできた深い溝に橋をかけることである。そして市民としての忘れられた素養を再学習し、市民としての失われた能力をとりもどした個人だけが、橋の建設者になれるということでもある。

批判理論再訪

★良心的にものを考える者は、前門の虎である、純粋だが無力な思想と、後門の狼である、有効だが、腐った支配欲のあいだで進退に窮する。ここに第三の道はない。実践への参加も、実践の拒絶も解決にはならない。実践性は必然的に支配欲に変わる
実践の拒絶によって、非妥協的純粋性への自己陶酔的欲求は満足させられるかもしれないが、思想は無益で不毛なものになる。=アドルノのジレンマ。
・洞窟の比喩問題。プラトンはコミュニケーションの断絶により、新しい知らせをもたらす者は殺されるだろう、と予想していた。
レオ・シュトラウスとアレクサンドル・コジェヴの激しい、結論のでなかった論争。シュトラウス=純粋な思想は存在する。コジェーヴ=必ず歴史に影響される。
・国家との関係、つまり、国家に協力するか、抵抗するかは近代の創世期的ジレンマ、確実に、死活にかかわるジレンマだった。

生活政治批判

・第二の近代=拷問でさえ、素人が自分で自分にするようになった。=自殺、ネグレクト
・公権力の存在により、私的自由は不完全なものとなるが、公権力の後退、消滅は法的に認められた自由の事実上の無力化を意味する。近代における解放の歴史をみてみると、前者を避けた結果、後者と衝突したことがよくわかる。アイザヤ・バーリンの用語をかりるなら、「否定的自由」が闘いとられたあと、それを「肯定的自由」―― 自由選択の幅や自由選択行為自体を規制できる自由――に変速させるギヤが破損した、ということらしい。
・私的問題を公的課題に転換するむずかしさ、私的問題を、個人的関心の総和より大きい公的関心へと凝縮し、圧縮するむずかしさ、「生活政治」という個別化されたユートピアを、ふたたび集団化し、「よき社会」、「正しい社会」の展望をとりもどすことのむずかしさ。
・個人の自立=自立した社会以外では獲得しえない

2.個人

・オールダス・ハックスリー『すばらしき新世界』/ジョージ・オーウェル1984年』 オーウェルの近未来は荒廃と貧困、欠乏と困窮の世界であるのにたいして、ハックスリーのは富と浪費、潤沢と飽満の世界
・共通するもの=厳しい統制社会にたいする不安 私的自由がゼロに、あるいは、お飾りになるだけでなく、そうした自由が、命令に従順、規則に忠実であるよう訓練された人間から、激しく憎まれるようになる不安。また、ひと握りのエリートがすべての糸をあやつり、他の人間が操り人形になる不安。
・世界は管理する者と管理される者、設計者と設計にしたがう者に分裂する。設計者は設計図を握りしめてはなさず、設計にしたがう者は設計図をみようともしないし、わかろうともしないし、みてもわからない。そして、厳しい統制社会に、他の社会形態の可能性は存在しない。
・人間を待ちうけているのは自由でなく、統制、管理、抑圧であるという将来像において、オーウェル とハックスリーの見方は同じだった。かれらは世界の異なった行く末を予想していたのではない。われわれが無知で、鈍感で、自己満足的で、怠惰で、すべてを自然のなりゆきに任せてしまったときたどるだろう道を、かれらは違ったふうに想像していただけなのだ。
オーウェルとハックスリーが未来の悲劇的輪郭を描こうとしたとき、ふたりがともに感じていたのは、世界の二極分裂、つまり、勢力を増し、いよいよ遠い存在になりつつある支配者層と、いよいよ弱体化する被支配者層の、とどまることを知らぬ分裂だった。

重量資本主義と軽量資本主義

・「ヨシュア記」=コスモス/「創世記」=カオスの対比
・支配階級の考え方が、社会における支配的考え方となることを発見したのは、カール・マルクスだった(冗語法的命題)。少なくともこの200年間、世界を支配してきたのは、つまり、可能を不可能から、合理を非合理から、良識を狂気から峻別し、人間生活の軌道内における選択肢を規定し、決定してきたのは、資本主義企業の経営者側だった。
・フォード主義(テイラー主義)的工場――設計と実施、命令と恭順、自由と服従を細かく分離し、それぞれの対の前者から後者へ、命令がなめらかに伝達される仕組みを確保しながら、前者と後者をしっかり連動させる工場――は、疑いなく、秩序達成を目標とする社会工学の歴史上最高の成果だといっていい。これなら、フォード主義が私生活、あるいは、世界的社会慣習の現実を理解するための、象徴的概念枠となったとしても不思議ではない。パーソンズの「価値の中心的な束」が支配する、自己増殖的「社会システム」から、アイデンティティ確立という一生をかけた仕事の指針である、サルトルの「生活プロジェクト」にいたるまで、非常に幅広い社会的ヴィジョンに、フォード主義は明らかに、あるいは、密かにみてとれる。
・この観点からいえば、オーウェルとハックスリーの対立など、社会主義と資本主義の対立同様、たんなる内輪もめ以上のものではなかったのである。共産主義でさえ、とどのつまり、市場の混乱、偶然性、偶発性の発生が予防できないフォード主義の欠陥(あるいは、不完全性)を補い、計画の合理性を強化するものでしかなかった。レーニンは「ソヴィエトの権力、管理組織と、もっとも発達した資本主義が、共産主義者によって結びつけられたとき」、社会主義のヴィジョンは完成するといったが、レーニンにとって、「ソヴィエトの管理組織」とは、「もっとも発達した資本主義」を工場だけに限らず、社会生活の全領域にあてはめることだった。
・労働者を職場につなぎとめ、労働力の流動を抑える、目にみえない鎖こそが、コーエンのいう「フォード主義の真髄」である。この鎖の切断によってもたらされた、フォード主義モデルの衰退と終焉は、生活経験全体にとっても、決定的な分水嶺となった。コーエンはつぎのように分析する。「はじめて就職した会社がマイクロソフトだった場合、その人間が一生をどこで終えるか、だれも想像できない。それがフォードやルノーだった場合、その人間は、ほとんど確実に、同じ会社で労働人生を終えただろう」。
・重量資本主義時代の資本は、労働者同様、一か所にとどまって動くことがない。ところが、最近の資本は、機内持ち込み荷物に、携帯電話と携帯パソコンだけをつめて、身軽にとびまわる旅行者のようなものだ。

免許・車アリ

・最高司令部が失われると、目的設定の問題が再燃し、際限ない躊躇と苦悩の原因をつくり、自信喪失、不確実性の予感、永遠の不安を生む。手段喪失の不安感→目的喪失の不安→自分探し
・世界の秩序を管理し、善悪の境界を監視していた最高司令部がみえなくなったいま、世界には可能性の無限の選択肢がある。…ひとの一生がどんなに長かろうが、冒険的であろうが、勤勉であろうが、獲得はおろか、探求さえできないほどの選択肢、機会が世界には存在する。この機会の無限性が、最高司令部が消えたあとにできた真空地帯を埋めた。
・いま、すべては個人にまかされている。能力をみつけ、できるところまで発展させ、能力が最高に発揮できる目的をさがしだす仕事は個人にまかされる。=抑圧する父・兄もいないがイコール助言をくれる父・兄もいない
・結局、リスクと不安にあふれた自由か、安定した不自由か。結局前者を選んだ。利点は欠点をともない、欠点は利点をともなう。

説明でなく見本を!

・消費者にやさしい軽量資本主義は、立法の権威を排除したわけでも、不必要な存在にしたわけでもなかった。逆に、限りない数の権威を生み、共存させた。その結果、特定の権威が権威の座に長くとどまることはもちろん、「特権的」な地位をえることもなくなった。…考えてみれば、「限りない数の権威」とは、矛盾したいい方ではないだろうか。複数の権威が存在するとき、権威同士はたがいを打ち消しあうから、それぞれの分野で結果的に最高の権威者となるのは、権威の取捨選択の権限をあたえられた者である。取捨選択する者のおかげで、権威予備軍はやがて権威となっていく。権威はもはや命令しない。取捨選択する者におもねる。そして、かれらは誘惑する。
サッチャリズム「社会というものは存在しない」 軽量資本主義の教祖(グル)ピーター・ドラッカー
・記録的な自己啓発本メロディ・ビーティ『共存はご免』「他人事にかかわれば気が変になるのはあたりまえです。自分自身だけ相手にしていれば、なんでもなく、幸せでいられます。」
・『ジェーン・フォンダの体操トレーニング』
・大文字の政治が崩壊した
・ゴシップの氾濫、『スペクタクルの社会』、バーネイズ『プロパガンダ
・個人が私的問題をどのように同定し、自分の技術と能力でどのように解決するかが、残された唯一の「公的課題」であり、「公的関心」の唯一の対象。啓発や指示は自分自身の判断と努力のなかで発見されるものだ、と信じさせられている視聴者や聴取者は、「自分に似た」他人の私生活をのぞきつづける。このときの熱意と期待は、私的苦悩とみじめさが、「知恵をよせあつめ」、「さまざまな人間を結集し」、「共同歩調をとる」ことで、癒され、和らげられると信じて、予言者や伝道者に手本と、指導と、教訓をもとめていた過去のそれと変わるところがない。

中毒となった衝動

・具体的必要性→欲望→願望 欲望の出現は比較、虚栄、羨望、自己賞賛によるが、願望の出現はなにものにも支えられていない。購買は偶然で、突発的で、自発的なものである。購買には願望表現と願望実現の両方の性質があり、すべての願望と同じく、不誠実で、幼稚である。

消費者のからだ

・健康=雇用可能であること。工場で問題なく働けること。
・健康→体力 飽くなき消費ができること

悪霊払いの儀式としての買い物

中毒化した買い物癖が、じつは、途切れたことのない激しい不安、自信欠如の不満や焦燥感などとの苦闘からきている
・多くの人間が同時に同方向に走っているとき、ふたつの問いを投げかけてみる必要がある、といった のはT・H・マーシャルだった。人間はなにを追いかけて走っているのか。人間はなにから逃れて走っているのか。

買い物の自由、あるいは、そうみえるもの

・「アイデンティティ」調和、論理、統一性というイメージの幻想。
・「インタビュー社会」「物語(ナラティヴ)社会」
・自分の輪郭を物で縁取ることによってアイデンティティを作る
・トマス・マシーセン パノプティコンシノプティコン(多数者が少数者を見る。見世物。マスメディア、とくにテレビ)

ひとりで、われわれは買い物する

ソルボンヌ大学のイヴ・ミショーは、これについてつぎのようにのべている。「機会が多すぎると、破壊と、断片化と、脱線のおそれが拡大する」。自己同定の作業には、破壊的副作用がともなう。それは心理的葛藤の核となり、非両立的衝動の発生のひきがねとなる。自己同定はすべての人間が例外なくおこなう作業でありながら、結局は、個人がそれぞれ非常に異なった条件のもとでおこなわなければならないがために、それは協力と団結を誘発するような統一的状況よりも、分裂と過酷な競争という状況をつくりだすのである。

3.時間/空間

・建築家ジョージ・ヘイゼルドン ケープタウン ヘリテージパーク ゲーテッドコミュニティ 高圧電流の流れるフェンス、監視カメラ
・マイク・デイヴィス『水晶の町(要塞都市LA)』公的空間の私有化、武装化 道路、公園、店舗までも安全な、しかし、同時に不自由な場所にすること。

見知らぬ者が見知らぬ者と出会うとき

・リチャード・セネットの定義「都市は見知らぬ者同士が出会う共同社会」
・市民性=「公的仮面をかぶる」とは、殻のなかに閉じこもり、他者との交流やかかわりから身をひく孤立主義や、「真の自我」の隠蔽主義ではなく、社会参加、共同参与といった行為のこと
フランソワ・ミッテラン「ラ・デファンス」空虚な公的空間
・公的でありながら、非市民的である空間の、ふたつ目の範疇は、消費者のための空間、あるいは、むしろ、都市生活者を消費者に変身させる空間のことである。リサ・ウーシターロによれば、「消費者はなんの社会的交渉ももたずして、音楽会場や展覧会場、観光地、スポーツ競技会場、ショッピングモール、カフェテリアといった、消費空間を共有する」という。こうした場所では、行動 action はおこっても、相互関与 interaction はおこらない。似たような行動をとる人間の物理的空間の共有は、行動に重要性をくわえ、「数による承認」と意味をあたえ、行動を疑問の余地を残さぬまで徹底的に正当化する。しかしながら、人間同士の相互関与は、個人のおこなう行動にとって、有益どころか、障害、邪魔でしかない。また、相互関与は買い物の楽しみになにひとつ貢献せず、目的追求への集中もさまたげる。目的とは消費であり、消費は完全な私的娯楽、私的にのみ経験される感動だ。ジョージ・リッツァーの「消費の殿堂」を埋めつくす人々は、会衆でなく群集であり、軍隊でなく群れであり、有機的全体でなくたんなる総数である。アルチュセールのあの印象的ないい方をかりるなら、そうした空間に入る者は、入り口で個人かどうかの「審問」をうけ、連帯心を保留するか破棄するか、忠誠心を棚上げするか放棄するかの選択を迫られる。
・出会いは短く、表面的でなければならない。関係は出会った者の望み以上に、浅くてもいけないし、深くてもいけない。空間はこの原則を破るような人間からしっかりと守られている――あらゆる闖入者、おせっかい、やかまし屋、消費者や買い物客のすばらしい隔離状況に干渉するでしゃばりから。適切に管理され、厳しく監視され、厳重に警備された消費の殿堂。

嘔吐的空間、食人的空間、非空間、空虚な空間

・セネット「共同体的連帯のイメージができあがるときには、人間同士なんの関与もなくてすむ状況が念頭におかれる……。共同体的連帯の神話を意図的に利用、あるいは、隠れみのにして、現代人は卑怯にも人間同士の関与を避けようとする……。共同体のイメージからは、「われわれ」のひととなりの衝突はもちろん、それらの違いは完全に排除されている。共同体的連帯の神話は、浄化の儀式でもあるのだ。」
・現代最高の文化人類学者、クロード・レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』のなかで、他者の他者性に対処する方法が、人間にはふたつしかなかったとのべている。ひとつが嘔吐的方法であり、もうひとつが食人的方法である。
前者は根本的に異端とみえる他者を、体外にだし、他者との物理的接触、会話、社交、あらゆる種類の商取引、親交、婚姻を完全に禁止する方法である。「嘔吐的」方法のもっとも極端な例は、投獄、追放、殺害であった。空間的隔離、ゲットーの設定、空間的接近、空間共有の制限は、これのもうすこし賢く、洗練された例であった。
第二の方法は異物の、いわゆる、「非異物化」にあった。つまり、異質な肉体、異質な精神を「摂取」し「食いつく」し、新陳代謝にかけることによって、食べた人間の肉体と同一化してしまうことにあった。これにも人食いから、文化強制、地方的慣習、地方暦、地方的信仰、方言、「偏見」、「迷信」の撲滅運動にいたるまで、多様な形態があった。第一の方法が他者の追放による抹殺を目的とするのにたいして、第二の方法は他者性の帳消しによる抹殺を目的とする。
レヴィ=ストロースの二分法が、「公的でありながら市民的でない」空間の二分法と、みごとに共鳴していたとしても、驚くにはあたらないだろう。パリのラ・デファンスは(スティーヴン・フラスティによれば、新しい都市改良計画のなかでも、評価の高い、非常に多くの「禁止空間」とならんで)、「嘔吐的」方法の芸術化であり、「消費空間」は「食人的」方法の応用である。両者は、それぞれのやり方で、同じことに挑戦している。都市に生活するかぎり、見知らぬ人間と会う確率はたかく、これへの対処が、両者の挑戦なのだ。もし、市民的習慣が欠落しているか、十分発達していないか、しっかり定着していないのであるとすれば、対処には特別な「動力つきの」対策が必要となるだろう。二種類の「公的でありながら市民的でない」 都市空間は、市民的能力の致命的欠落のおとし児である。両空間とも市民的能力の欠如が有害な結果をもたらす可能性に対応したものだった。しかし、対応は失われた市民的能力を研究し、回復させようというものではなく、それを都市生活に無意味で、不必要なものにしようというものだった。
・市民→消費者
・自分が行かない場所 に行ってみること

見知らぬ人に話しかけるな

ヴィクトリア朝時代の子どもたちが注意されたのと同じように、見知らぬ人間の姿をみても、話しかけられないように、話しかけられても、話を聞かないようにしなければならない。肝心なのは、見知らぬ人間のいうことを、自分とは無関係と思うこと、自分ができること、しなくてはならないこと、したいと望むことのどれとも、無関係だと思うことである。
シャロン・ズーキン「だれもどうやって他人に話していいかわからなくなった」
・「他者」、差異、異質性を切り離そうとする努力、意思疎通、交渉、共同参加の必要性を排除する意思は、社会的絆の弱さ、流動性から生じる実存的不安への予想された反動だった。たしかに、排除思想は個人の安全にかかわる脅威を、「異質な実体」の侵入の結果だととらえ、脅威から解放された安全な状態を純粋性だと考えたがる傾向、汚れと汚れの浄化にたいする現代の異様なこだわりにうまく合っていたといえる。口や鼻から、からだのなかに侵入する異物に神経質になることと、近所にこっそりと移り住む部外者・外国人を恐れることは、同じ認識枠でのできごとである。そして、両者はともに「異物(あるいは、部外者・外国人)の組織からの排除」を望む。
・ジョルジュ・ベンコ「他者のなかの、より他者的な他者が外国人だ。他者を他者として認識できないので、ひとを外国人として排斥するのは、社会が病んでいることの証拠である。」
・ 公的空間は対話・交渉技術が衰微し、参加と関与が逃避、不干渉とすりかわるという病に犯されている。
・「見知らぬ人に話しかけるな」という、子どもを心配する親が、子どもたちにあたえていた注意は、いまや、おとなたちの教訓となった。しかも、この教訓にあわせて話しかけたくない人間を、見知らぬ者と定義できるように、生活の現実全体は組み替えられる。実存的不安の根幹には手がつけられず、国民の不安の解消にも着手できない政府は、このような傾向を歓迎し、積極的に発展させようとする。

時間の歴史としての近代

・前近代は時間=空間。徒歩かせいぜい馬車。
・空間を時間(速さ)という武器で征服する。 

重い近代から軽い近代へ

・重い近代 重機械、工場、機関車、遠洋航海船
・第二次大戦 1942年東京大空襲へ向かう秘密の基地=シャングリラ
・ジェネラル・モータースのミシガン「ウィロー・ラン」工場
・「フォード主義的工場」は、資本と労働が直接顔をあわせる場であり、両者が「死がともに分かつまで」と、永遠の婚姻を約束する場でもあった。それは便宜結婚、あるいは、必要にせまられた結婚で、恋愛結婚ではなかったが、結婚は「永遠に」(もちろん、このことばの意味は、個人個人の生活でさまざまであるが)つづくはずで、実際、つづくことも少なくなかった。婚姻は、基本的に、一夫一婦制でなければならなかった。また、離婚は問題外であった。配偶者同士、別れることはできず、一方だけで生きてゆくことはできなかったからだ。

存在の魅力ある軽さ

ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」
・もう30年以上前に(その古典的『官僚主義的現象』のなかで)、ミシェル・クロジェは支配者(あらゆる種類の)の資格は、不確実性の核心にかぎりなく近づくことにあるとみた。かれの判断はいまでも十分通用する。みずからは行動を標準にしばらせず、予想外の行動をしながら、他者の行動は基準にしたがって規制する(あるいは、ルーチン化し、単調で、明白なくりかえしとする)人間が支配者となる。手をしばられていない人間は、手をしばられた人間を支配する。前者の自由は、後者の不自由の主たる原因となる一方、後者の不自由は、前者の自由の支えとなる。
・労働を管理し、計画にそって運用するためには、労働者を管理し、監督しなければならない。また、作業過程を管理するには、作業員を管理しなければならない。こうした条件のもとで、資本と労働はたがいにむきあい、よかれあしかれ、共同歩調をとることになった。結果としては、確執もあったが、同時に、互いをうけいれあうようにもなった。辛辣な非難、激しい闘争、相互嫌悪はあったが、同時に、ぎりぎりの妥協による、双方が、ある程度、満足で きる共生のためのルールを模索することにおいては真剣そのものだった。革命の勃発と福祉国家の成立 は、当初まったく予想されていなかったが、しかし、結局、不可避的であったのであり、これらは資本 と労働の分離が選択肢としてありえないような状況から生まれたといえる。
・重い資本主義の時代、「経営科学」の焦点は、「労働力」を囲いこむこと、定着を強制すること、予定どおりに動かすことであったが、軽い資本主義の時代になると、経営の中心課題は、「労働力」の削減、移動へうつった。永遠の婚姻関係は、短い逢瀬へと変わったのである。べつのいい方をすれば、レモンジュースを飲むのに、わざわざ、レモンの木を植えることから始めるようなことをしなくなったのである。
・スリム化、縮小、廃止、閉鎖、生産性の低さゆえの売却が、この新しい経営哲学の応用である。また、労力と時間をかけて管理するより、生き残りをかけて競わせる諸策も、同じ経営哲学の応用である。
・これが、すでに打撃をうけ、あるいは、これから打撃をうけるだろうと不安がる人たちにたいする、現在の支配のかたちである。…「さまざまな事業縮小による締めつけの結果、労働者の士気と動機づけは、急激に低下している。生きのびた労働者も、解雇された労働者との競争に勝ったと喜ぶどころか、首切りの斧が自分にもふりかかる不安に怯えている」。

瞬間生活

・リチャード・セネットのダヴォス会議観察 ビル・ゲイツは「ひとつの職業で自分を腐らせるより、可能性のネットワークのなかにいたい」と、しばしば公言している。セネットをもっとも感心させたのは、「みずからつくりあげた人気製品がいつなくなってもいい」と、平気な顔で、率直に、また、自慢げに語るゲイツの姿であったらしい。ゲイツは「混乱のなかで成功する」事業家のようにみえる。自分の創作物をふくめ、なんにたいしても愛着や、執着(とくに、感傷的なそれ)をもたないよう、注意をはらう。かれが誤った道の選択を恐れないのは、同じ道だけを長く歩むことはありえず、つねに引き返したり、道をかえる準備をしているからだ。現実的選択の幅がひろがることはあっても、ゲイツの生活軌道に集積、蓄積されるものはなにもない。軌道は機関車が通りすぎるとすぐさまとりはずされ、道に残された足跡は消され、集められたものはすばやく投棄され、すぐに忘れさられる。
・毎日顔を合わす時代(永遠性・永続性の時代)=信用と信頼性がなにより大事→瞬間性の時代=ひたすら逃げていく、一過性、非道徳性、無責任性の時代
ギー・ドゥボールの有名なことば「ひとは父親よりも、時代に似る

4.仕事

・リーズ市庁舎の建築

歴史の進歩と信頼

・「進歩」=現在への自信
・現在の時代状況は、空高くとぶ飛行機の操縦席にだれもいないのに似ているといえよう。ギー・ドゥボールをふたたび引用するなら、「管制室は摩訶不思議な場所で、指導者も、明確なイデオロギーもない」ということになる。
・リンドン・ベインズ・ジョンソン大統領「偉大な社会(Great Society)」政策の挫折
・もし、現代的進歩があまりにもみなれない形をしているので、現代にほんとうに進歩はあるのかと疑われるのは、進歩の意味が他の近代的要素同様、極度に「個人化」したためだ。別のいい方をすれば、進歩が規制緩和され、民営化されたのだ。現実を改善してさしあげましょうという申し出は多彩であり、特定の改善策がはたして改善といえるのかどうかの判断は、自由意思、自由競争にまかされているために、進歩の規制緩和が必要となる。また、改善は集団でなく、個人によっておこなわれるため、進歩が民営化されるのである。不満から抜けだし、欲求をより高次元で充足したいなら、それぞれの機知、知力・体力、勤勉さを、個人のレヴェルで使わざるをえない。
・仕事を近代最高の価値に高めたさまざまな理由のうち、もっともあきらかなものは、形なきものに形をはかないものに永続性をあたえる、仕事のもつ驚くべき、いや、魔術的力だった。混沌を秩序に、不確実性を確実性に変えるためには、未来を包囲し、制圧し、征服しなければならず、それが近代的野心でもあった。そして、仕事はその魔術性ゆえに、当然ながら、近代的野心から重要な、あるいは、決定的な役割を付与されることとなった。仕事の価値、そして、仕事のもたらす利益は少なくない。たとえば、富の拡大、貧困の除去がその例である。しかし、仕事のあらゆる利点に通底するものは、秩序形成、人類にみずからの運命を決定させる歴史的行動への貢献だった。
・このように了解されるとするならば、歴史形成において「仕事」とは、好むと好まざるとにかかわらず、人類全体が従事しなければならない行動であることがわかるだろう。また、「仕事」がこのように定義されるとするならば、人類のあらゆる構成員が例外なく参加しなくてはならない、共同の努力であることがわかるだろう。そして、以下はすべて、上記のことがらから派生した結果である。仕事に従事するのが「自然の状態で、従事しないのは異常だと考えること。貧困、貧窮、没落、堕落の原因は、その自然の状態を離れたことにあると考えること。種全体の前進にたいしておこなわれた貢献の度合いによって、人間を評価すること。自己の道徳的向上と社会全体の倫理水準の向上をもたらすすべての行動のなかで、仕事を最高のものと考えること。
遊牧民→定住民→「非自主的遊牧民
・仕事の性格は完全に変わった。仕事は一回かぎりの行為に堕落し、目先のものを目的とし、目先の目的に触発されるのと同時に呪縛されるものとなった。また、それは形づくるのでなく、形づくられるものに、計画と構想の産物でなく、偶然の結果となった。
・人類の普遍的グランド・デザインや、一生をかけた天職という概念からはっきり切り離された仕事は、いまや、「暇つぶし」とでもいったほうがいいだろう。運命論的な意匠を剥奪され、形而上的支柱をはずされた仕事は、重厚な資本主義、堅固な近代を支配していた価値の星雲のなかでわりあてられていた確固とした位置をも失ったのである。仕事はもはや自己、アイデンティティ、生活設計の足場にはなりえない。それは社会の倫理的基礎とも、個人生活の道徳的機軸ともみられなくなった。
・仕事の倫理的価値が失われたあとには、数々の審美的価値がもちこまれた。仕事の満足は個人が自分自身によってもたらすもので、未来世代の幸福、国益、人類への実質的、あるいは、仮定的貢献によって生まれるものではない。自分のしている仕事が重要であり、公共の利益となると断言できるだけの自信や権利をもつ人間はほんのひと握りにすぎない。仕事が人間の「品性をたかめ」、人々を「よりよい人間」に向上させるとはほとんど期待されなくなり、仕事は賞賛と賛美の対象からはずれた。仕事の価値は仕事をする人間にとって楽しいか、愉快かによって判断され、生産者、製作者としての倫理的、プロメテウス的使命の達成感でなく、消費者、刺激の追求者、経験の収集者としての、審美的欲求の満足度によって判断される。

労働の発生と衰退

・労働=「必要な物質を共同体に供給するためにおこなわれる肉体的努力」
・カール・ポランニー あらたな産業秩序を生んだ「大変革」の出発点=労働と生活の分離=労働力が商品になる=物と同じ扱いになる
・こうした現象をまのあたりにした者のなかでも、とりわけ思弁的傾向のつよい人間には、多くの人が仕事を失い、根無し草的に生活する新しい状態は、労働の解放のように映ったかもしれない。あるいは、人間の能力全体が、息もつまる地方的束縛、慣性の力、世襲による停滞から解放された、心おどる瞬間とみえたかもしれない。しかし、労働が「自然の束縛」から解放されても、労働者がだれにも所有されず、自由に漂泊できる時間は長くつづかなかった。また、みずからの行方を自由に、自主的に、自律的に決定することなど、とうていできなかった。
・堅固な近代は、資本と労働が相互依存の原理で、密接に連動しあう重厚な資本主義の時代でもあった。労働者は生活のため雇用に依存し、資本は生産と成長のため労働者に依存した。しかも、両者は同じ住所に共存し、住所変更は不可能だった。工場の巨大な壁が、監獄のように、両者を囲い込み、閉じ込めていたのである。資本と労働は、豊かなときも貧しいときも、健康なときも病んだときも、死がふたりを分かつまで、けっして離れてはならなかった。工場は両者の共同の生息地であり、同時に、塹壕戦がたたかわれる戦場であり、希望と夢のふるさとであった。
・この相互依存があったからこそ、資本主義的工場にはじめてかりだされた元職人がもっとも嫌悪した非人間的時間割も(E・P・トンプソンはかれらの抵抗を鮮明に記録している)、あるいはあの悪名たかきフレデリック・テイラーの時間計測に代表される「一歩進んだ、新しい」管理も、そして、セネットのいう、「大企業の成長のため、経営者によって実行される抑圧と支配」でさえ、「労働者が自分たちの要求をつきつけ、権力を獲得するための前提に変ええた」のである。セネットは「反復作業は卑しいものかもしれないが、労働者を守るものでもあったし、反復作業は労働者を腐らせたかもしれないが、生命を形成するものでもあった」とのべている。

結婚から同居へ

・記憶に残るかぎり、働き手の生活が安定したことはなく、こうした状況になにひとつ目新しいものはない、という反論もあるだろう。しかしながら、いまの不安定さはその深刻さにおいて前例がない。ひとの生活や未来をだいなしにするかもしれない災難は、人々の連帯や、団結では、あるいは、集団によって討議され、合意され、執行される対策でははねかえし、打ち砕くことができなくなっている。また、災難はだれかれのみさかいなく襲ってくる。しかも、犠牲者は不可解な論理で、あるいは、不条理に選びだされ、そのたびに気まぐれな一撃があびせかけられるのだから、襲われるのはだれで、救われるのはだれか知るよしもない。現代の不安定さは、個別化を進める、強い力であるといえよう。連帯でなく分断をもたらしながらも、だれがどのように分断され、犠牲となるか予測できないのであるから、「共通の利益」などという考えは、たんに漠然とした、実質的価値のないものとなる。
・いまこの時代の恐怖、不安、不満は、たったひとりで、耐えられねばならない。これらが蓄積され、「共通の大義」へと集約されることはないし、明確な、かたちある主張に変えられることもない。共通利益を守る立場が合理的戦略だった事実は過去のものとして去り、労働者階級を守る戦闘的組織づくりとは違った、べつの生活戦略が必要となった。労働環境の変化の犠牲者、あるいは、犠牲者になるのではないかと恐れる人間が、よくいうのは次のようなことだと、ピエール・ブルデューは指摘する。「労働の規制緩和臨時雇用の増加のなかで生まれてきた新しいかたちの搾取に対処するには、旧来型の組合運動では不十分である」。昨今の変化は「過去の連帯基盤」を破壊し、結果として「失望感、闘争精神の喪失、政治参加の衰退」を生んだ、というのがブルデューの説である。
・雇用は短く不安定、将来への確実な展望は消滅し、雇用はエピソード的なものになった。そして、昇進と解雇をめぐるゲームの、ほとんどすべての規則は否定されるか、ゲームの途中で変更された。こうなると、相手にたいする忠誠心、献身が芽をだし、根をはる可能性はほとんどなくなる。長期的相互依存の時代と違って、新しい時代には、共同作業の叡智に真剣に興味をもつ動機はほとんどみあたらない。雇用の場は共生のための規則を、忍耐強く、苦労しながらさがす共同生活の場ではなくなった。それはむしろ、数日間をすごし、快適でなければ、あるいは、満足がいかなければいつでも出ていけるキャンプ場のようなものとなった。マーク・グラノヴェッターはいまの時代を「弱い絆」の時代と呼び、セネットは「長期的関係より、一時的連携が有益な」時代と呼んだ。
・資本は獲得された空間移動の自由で、地方型政治家を脅迫し、要求をつぎつぎ呑ませている。地域から資本を引き揚げ、他の地域に移すと、脅しを(それが暗黙の脅し、想像された脅しであっても)かけられれば、責任感のある政府は政府自体のためにも、代表する地域のためにも、資本の要求を真剣に検討しなければならないだろう。こうして、資本の引き揚げを回避するという最大の目的のために、政策はしばしば変更される。
・高速で移動する資本と、移動をとめようとする各地域権力の綱引きが今日の政治である。そして、負けるにきまっている綱引きをしていると感じているのは、各地域組織の権力である。力でなく、平身低頭して資本を誘致し、一日いくらの部屋をかりてもらうのでなく、摩天楼を建ててもらう以外、地域の利益確保にかける政府がとれる策はない。これは(自由貿易時代によく使われる政治用語を使うなら)「自由な企業活動にふさわしい環境を整備する」ことによって達成されるだろう。環境整備とは、「自由な企業活動」のルールに政治をあわせることである。つまり、政府はみずからのもつあらゆる規制権限を使い、規制緩和と、残存する「規制」法、条例の廃止を断行して、規制権限が資本の自由の制約に使われることはけっしてないと証明してみせるのである。また、政府は行政をうけもつ地域が、地球規模で考え、地球規模で行動する資本の展開や、将来の活動を邪魔しないよう、また、隣接する行政区域より、そうした資本に有利な処遇を提供できるよう努力するのである。こうした政策とは、具体的にいえば、低い税金、規制緩和、あるいは、規制の完全撤廃、とりわけ、「柔軟な労働市場」の設置をさす。一般的に、こうした政策は資本のいかなる決定にも、組織だって抵抗できない、あるいは、しない、従順な人間集団をつくる。逆説的なのは、各地域の政府が資本に、出ていくのはいつでも自由ですよ、出てい くのに報告はいりませんよと約束して、域内にとどまってもらっていることなのだ。
・かれらはライシの用語にしたがえば、「ルーチン労働者」で、組立ライン、(より近代化した工場では)電算機ネットワーク、レジのような電子オートメーション機械に一日じゅうしばられる人々である。現在の経済システムのなかで、使い捨て可能、取り替え可能、交換可能だと考えられているのは、第4の範疇に属する労働者である。こうした職種では、特殊な技能も、顧客とのつきあいの技術も要求されない。したがって、労働者の入れ替えも簡単なのである。ぜひ使ってみたいと雇用者に思わせるような特質が、かれらにあるわけでない。また、かれらにはわずかな交渉能力しかない。かれら自身、自分が使い捨てであることを承知しているために、仕事に特別な愛着をもったり、仕事にうちこんだりするのは無駄だと考え、同僚との長いつきあいをはじめる気もない。失望を警戒して、かれらは職場に特別な忠誠心をもたないよう、職場の未来にみずからの生活目標を重ねあわさないよう注意する。これは「柔軟化した」労働市場にたいするごく自然の対応だろう。労働市場の柔軟性をみずからの生活経験にひきつけ、かれらは自分の仕事と、長期的安定はまったく無縁だと感じるからである。
・リチャード・セネット「彫刻を彫ることから食事の配膳にいたるまで、あらゆる職業において、人間は挑戦的な仕事、むずかしい仕事こそ自分の天職と考えるものだ。」
・最近、国際派エリートが使う語彙と認識枠。「踊る(ダンシング)」とか「波のり(サーフィング)」といった比喩を用いる。
・「情報」の(大部分が電子的な)入手は、厳重に保護された権利となり、国全体の幸福度は、テレビをそなえた(あるいは、テレビに犯された?)世帯数で判断されるようになった。そして、その情報によってもっとも頻繁に伝えられるのは、情報の受け手の住む世界の流動性であり、流動的になることの意義である。「現実世界」でおきたことの忠実な再現だと誤解されやすい電子情報のひとつは「ニュース」である。また、みずから「現実を映す鏡」の役割を果たすかのようなふりをするのも(現実を忠実に反映し、歪みなく報道していると番組でしばしば主張する)、電子情報のひとつ、「ニュース」である。ニュースは、ピエール・ブルデューの見方によれば、もっとも耐用期間の短い商品だということになる。たしかに、ニュースの寿命はメロドラマや、トークショーや、お笑い番組の寿命にくらべても極端に短い。しかしながら、「現実世界」についての情報としてのニュースの短命さこそ、情報のもっとも重要な要素なのである。四六時中流されているニュース番組は、毎日、繰り返し繰り返し、変化の息をのむようなはやさと、ものごとが古くなる速度の加速度的上昇と、新しいもののやつぎばやの出現を報道する。

追記――引き伸ばしの短い歴史

・近代社会の基礎として、世界内存在の近代的形態を形成した行動・態度は、充足の先送り(欲求、欲望、快楽、愉悦の先送り)であった。先延ばしは充足の先送りというかたちで、近代という舞台に登場しできた(あるいは、もっと正確にいうなら、近代という舞台をつくりあげた)。
・物質の獲得は自主的禁欲と、先送りの賜物なのである。禁欲が強ければ強いほど、結果的には、享楽の機会もひろがるはずである。貯蓄をすれば、より多くのお金がやがて使えるようになりますよ、だから、お金はためなさい、ということになる。皮肉なことに、即時性の否定、目標の棚上げは、目標の価値を一段とたかめる結果となった。待たなければ報酬はえられないことで、報酬の、人をじらすような、魅惑するような呪力は倍増する。先延ばしは、欲求充足を行動動機として否定するどころか、むしろ、人生の究極の目的とした。
・先延ばしの二面性からは、正反対の傾向が生じる。ひとつが手段と目的の交替をうながし、仕事のための仕事の美徳を説き、愉悦の先送りに独立した価値、最終目標よりさらに大きな価値を認め、先送りを永久につづけさせようとする労働倫理。
・しかしながら、以上のことは話の一面にすぎない。生産者社会では、充足先送りの倫理的原則によって、労働の永続性が確保されていた。欲望は労働よりはるかに短命で、弱体で、枯渇しやすく、労働とちがい、制度化されたルーチンという補強がないため、充足が永遠の未来に先送りされると、生き残るすべはない。繰り返し繰り返し充足されなければ、欲望からは新鮮さが失われる。しかし、充足は欲望の終着点でもある。したがって、消費美学が支配的な社会には、特別なかたちの充足が必要となる――大量に投与して患者を殺さぬよう、少量ずつ処方されなければならない、治療薬であると同時に毒薬でもある、デリダ的なファルマコンが。あるいは、完全な充足でない充足、飲みきれない、つねに途中で放棄される充足……。

液体的世界における人間の絆

現代社会のもっとも鋭敏な分析家のひとりとして知られるピエール・ブルデューが、1997年12月におこなった講演のタイトルは「今日、不安定さはいたるところにある」というものだった。タイトルがすべてをものがたる。いまの生活状況のもっとも普遍的な(と同時に、もっとも苦しい)特質は、不安定、不確実性、危険性だといえよう。フランスの思想家は précarité ということばを、ドイツの思想家は Unsicherheit や Risikogesellschaft を、イタリア人は incertezza を、そして、イギリス人は insecurity について語る。しかし、かれらが共通に思いうかべるのは、地球上いたるところで、多様なかたちで経験され、さまざまな名称をあたえられた人間的苦悩の共通部分、わけても、先進富裕地域で深刻な(新しく、前例がないから)苦悩の共通部分であるにちがいない。上のような単語がとらえ、明確化しようとするのは、不安定(身分、権利、生活の)、不確実性(永続性と将来の安定の)と、危険性(からだと、自己と、財産と、近隣と、共同体の) の三層からなる現象である。
・経済、社会情勢の不安定さによって、人間は世界を使い捨て、あるいは、使用一回かぎりの物ばかりを集めた器と認識するようになった。さらに、世界は使い手が開けることも、直すことも、修繕することもできない、密封された数々の「ブラック・ボックス」の集合のようにもみえてきたはずだ。今日の自動車修理工は故障した、あるいは、損傷したエンジンを修理する訓練をうけていない。修理工の仕事は磨耗した、あるいは、欠陥のある部品をとりはずして廃棄し、倉庫の棚にならんでいる一定規格の部品ととりかえるだけである。「スペア部品」の内側の構造について、その不思議な機能について、修理工はほとんどなにも知らない。構造や機能の理解や、それに付随した技術の獲得を、かれらはみずからの任務だと考えないし、自分たちの能力とは無関係だと思っている。修理工場でいえることは、外の生活にもあてはまる。すべての「部品」は「スペア」で、取り替え可能で、また、取り替え可能のほうが便利なのだ。もし、壊れた部品を捨て、新しい部品と交換するのにわずかな時間しかかからないのなら、どうして時間をかけて修理する必要があろうか。
・意図的に、あるいは、うかつに、われわれが採用した生活姿勢は、労働市場を牛耳る人々の「不安定化」 政策さえ支えることになった。こうした不安定化政策とわれわれの生活姿勢は、人間、共同体、仲間同士の絆を弱め、弛緩、切断、消滅という結果をもたらす。死がふたりを分かつまで」式の親密な関係は、「不満がでるまで」という、定義上も、実際上も、一時的である契約にとってかわられた。こうしたぐいの契約は、はかりしれない犠牲をはらって協力関係をつづけるより、関係の解消のほうがよりよい機会やより優れた価値をもたらすと、どちらか一方が察したとき一方的に破棄される。
・いいかえれば、連帯や協力は生産されるのでなく、消費されるものとみなされ、それには消費物にふさわしい取り扱いがなされる。連帯や協力も他の消費物資と同じ価値判断に付されるのである。
・関係(パートナーシップ)は一時的なものにすぎなくなるであろうという予測は現実となった。人間同士の絆は、継続的努力と、ときおりの自己犠牲によって育つものではなく、買われた瞬間に、充足をもたらすものである――それは満足をあたえなくなったとき切り捨てられ、喜ばれるあいだだけ保持される。それならば、関係に投資することは「泥棒に追い銭」であり、関係を救うために、不快さと苦痛に耐えることはもちろんのこと、関係をもつこと自体、無意味である。小さなつまずきさえ、関係の崩壊、解消の原因となる。とるにたらない意見の不一致も、激しい衝突の原因となるかもしれず、わずかな摩擦も修復のきかない、根本的対立となるかもしれないのだ。W・I・トマスがこうした事情の変化を目撃したとしたら、きっとつぎのようにいっただろう。関係への関与を、いつ手を引いてもかまわない、一時的なものだとしか認識していない人間は、ひととの関係に関与しているのでなく、自分自身の行為に関与しているにすぎない。
・生産=協働 消費=個人的
ルイス・ブニュエルの完全に個人的な食事シーン

信頼欠如の永続化

ピエール・ブルデューは信頼の崩壊と、政治参加、集団行動にたいする関心の低下のあいだに、関連性をみている。将来を展望できる能力は、すべての「変革」思想、現状の再検討と変革の努力にとって絶対必要条件であるが、現在を把握できない人間に、将来展望などできるはずはない、とブルデューはいう。ライシの第四の範疇にはいる人々は、こうした現実を把握する能力を決定的に欠いている。かれらは地面にしばりつけられ、移動を禁止され、移動したとしても、固く守られた最初の検問所で逮捕さ れる運命にあるので、自由に回遊する資本とくらべれば、先天的に不利な位置におかれていることになる。資本はグローバル化する一方、現代人は地域に幽閉されたままである。現代人は丸腰で、「投資家」「株主」といった不思議な存在、あるいは、さらに不可解な「市場の力」「競争原理」の気まぐれの前にたたされる。きょう、なにかを獲得したとしても、あすには予告なくとりあげられるかもしれない。現代人に勝ち目はなさそうである。常識があれば、あるいは、常識的であろうとするならば、ひとはだれも負け戦を覚悟で、戦いを挑んだりしない。現代人は苦悩を政治問題化することもないし、政治に救済をもとめることもない。→労働運動の衰退

5.共同体

社会学的にいえば、共同体論は近代生活の加速度的「液状化」にたいする、あたりまえの反応からでてきたといえる。個人の自由と、個人の安定の均衡を徹底的にうばう液状化によってもたらされる数えきれない結果のうち、あきらかにやっかいだと感じられる一面に反応したのが共同体論だった。個人の安定を保障するものの供給は、またたくまに減少したが、その一方で、個人的責任(割り当てられても、 実際には、果たされてはいないけれども)の規模は、戦後、前例をみないほど拡大した。個人の安定のためにもっとも欠けていたのは、他者とのつながりの弱さであった。絆のもろさ、はかなさは、個人的目的を追求する私的権利を手にいれるのとひきかえに、個人がどうしても支払わなくてはならない代償だったのかもしれない。しかし、それは同時に、効果的目的追求、追求の士気にとって、最大の障害となった。これは流動化する近代生活の根の深い逆説でもある。
・共同体論の復活は、個人の安定とは対極にある状況に反応した結果生じた、振り子のゆりもどし的現象である。
・失業、不確実な老後、都市生活の危険性である。三者に共通するのは安心にたいする脅威である。こうしたなかで、共同体論のおもな魅力は、予測しがたい、変わりやすい天候に遭遇し、荒れた海に投げだされた船乗りが、必死にもとめ安全な港のようなものを提供していることにある。
・ジョック・ヤング 共同体論における「共同体」=実は「アイデンティティ」 共同体は幻想
・幻想の、想像上の家族、家庭 夢のような安心・安全
・共同体=必ず敵を必要とする ジョック・ヤング「他者を悪魔化しようとする欲望は、存在論的不安に立脚している」

民族主義第二型

・ある程度の確信をもって共同体と呼べる唯一の共同体、近代でただひとつ成功した共同体は、民族的均一性を他のあらゆる属性に優先して、第一の基準とした民族国家であった。国家の均一性と正統性を証明する論理的基礎である。民族性(そして、民族の単一性)は、民族国家の成功によって、歴史的意義を獲得した。現在の共同体論は、当然、こうした歴史的伝統の利用を望む。昨今の国家主権のゆらぎ、国家にかわるあらたな主体の必要性をみるかぎり、共同体論のこうした望みも、あながち、場違いなものだとはいいきれないだろう。しかしながら、民族国家の成功と、その成功を利用しようとした共同体論的野心の共通点はここまでにすぎない。結局、民族国家が成功したのは、自立しようとした共同体を抑圧するのに成功したからだった。それは「地方性」、地域的慣習、「方言」を徹底的にたたきつぶし、そして、共同体的伝統にかわって、統一言語、共通の歴史的記憶等を奨励した。民族国家主導による文化闘争が徹底的であればあるほど、国家がつくる「自然な共同体」の成功はより完璧だった。さらに、民族国家は(現在の共同体予備軍とはちがって)この闘争に素手でのぞんだのでも、また、洗脳の力にだけ頼ったのでもなかった。民族国家による統一共同体の建設は、公的言語の法的強制、学校教育の統制、そして統一的法体系の整備によって支えられていたが、いまの共同体予備軍には、こうした手段は備わっていないし、備えられる見通しもない。

類似による統一性か、差異による統一性か

高価な安全

・エミール・デュルケム「永続的な特質をもつ行動だけが決断に値し、持続できる喜びだけが欲望に値する」「社会は個人よりはるかに長生きだから、われわれに束の間でない満足を味わわせてくれる」。 デュルケムの見方によれば、社会とは、はかなさの恐怖から人間を守る、避難所の役割を果たしているのである。
・からだと共同体の孤立は、流動的近代におこった重大な変化に起因する。そのなかには、ひとつだけ、特別な重要性をもつ変化がある。それは国家が確実性と安全を提供するための、あらゆる主要手段と装置を放棄し、売り渡したこと、つづいて、確実性/安全への国民の願いを支援しなくなったことである。

民族国家のあと

・近代において、民族性は国家の「もうひとつの顔」であり、領土と住民にたいして国家が主権を主張するうえでの主要な根拠である。民族の民族的信憑性と、安定と永続性を保証するものとしての魅力は、国家との密接な関係のなかから生じる。また、市民の安全と安定を持続的基盤の上に確立するという、国家的行動のなかから生じる。新しい状況では、民族が国家との密接な関係からえるものは少ない。熱狂的愛国主義によって団結した大規模な徴兵軍が、冷静な軍事エリートによるハイテク軍にとってかわ られたとき、国家は民族の動員、配備から多くを期待できなくなった。一方、国の富は労働力の質、量、士気でなく、国際資本の冷徹な傭兵軍にとって、その国がいかに魅力的かによって決まるようになった。
・数世紀にわたる国家と民族の蜜月は終わりをつげようとしている。離婚にはいたらなくとも、無条件の忠誠を誓いあった神聖な結婚は、たんなる「同じ屋根の下に住む」同居に変わったのである。
・安定と安全の提供という任務を、国家がふたたびになう見込みはない。国家にあたえられた政治的自由は、超地域性、高速移動、逃避・回避能力という強力兵器で武装したグローバル・パワーによって、完全に浸食されてしまった。新しい国際ルールの拒否は、もっとも重く罰せられる罪であり、地域の主権をになう国家は、この罪を犯さぬよう、細心の注意をはらわなければならない。世界基準をやぶる重罪にたいする報復は即座にして、厳しいからだ。
・多くの場合、処罰は経済的なかたちでおこなわれる。保護政策をとり、「整理されるべき」産業部門に手厚い公共投資をおこない、「国際金融市場」「国際自由貿易」に国をまかせようとしない反抗的な政府には、融資の拒絶、債務軽減の取り消し処分がおこなわれる。地域通貨は世界市場で敬遠されて、売られ、切り下げを余儀なくされる。地域の株式は世界の株式市場で暴落する。国は経済封鎖によって孤立し、かつての、そして未来の貿易相手国からも世界の不可触賤民(パリア)としての処遇をうける。世界の投資家は予想される損失を削減するために、資産を回収し、資金をひきあげる一方、残された事業の整理と、犠牲者の救済は地域政府・機関におしつける。
・処罰は「経済的方法」以外でもおこなわれる。特別反抗的な政府には(抵抗は長続きしえないものであっても)、反抗を模倣する政府があらわれるのを防ぐため、文字どおりの鉄槌がくだされる。国家が新しい「世界秩序」への従属を理不尽にも拒否した場合、グローバル・パワーの卓越性が、毎日、習慣的に示されただけでは十分ではないかのように、軍事力が動員されることさえある。迅速の緩慢にたいする卓越性、逃避の関与にたいする優越性、超地域の地域にたいする優位性は、攻撃してはすぐ逃げかえるヒット・アンド・ラン戦法を専門とし、「救われるべき命」と「救うに値しない命」とを厳格に分離する軍事力によって証明される。→ユーゴスラヴィア戦争
・もはや、こうしたこと(領土の支配)はおこりえない。流体的近代における支配競争は、「大きいもの」と「小さいもの」でなく、速いものと遅いものとの争いである。競争相手が追いつけないような速さに加速できるものが支配する。速度が支配を意味するとき、「領土の獲得、活用、植民」はハンデであり、負債であって、財産にはかぞえられない。他国の領土の支配、いわんや、併合は、資本集約を必要とし、行政や警察といった煩雑で無益な雑務と責任をふくみ、将来、移動の自由の大きな束縛にもなりかねない。
★国際エリートの力は、地域的責任を逃れる能力に由来する。グローバル化とは、まさにそうした責任の回避であり、地域の政府だけが、法と(地域の)秩序の番人としての役目をになう、業務、作業分担のことである。
グローバル化はさまざまな共同体の平和な共存をうながすことでなく、共同体間の反目や不和を助長することにおいて、貢献しているようにみえてならないのである。

空白を埋めること

多国籍企業は「国家のない世界、あるいは、少なくとも大きな国家でなく、小さな国家からなる世界」を「理想的世界」とする、とエリック・ホブスボームはいった。「石油資源をもたないかぎり、国は小さければ小さいほど、弱ければ弱いほど、やすい費用で政府を買収できるからだ」。
・「今日、経済の実質的二重構造においては、一方に、国による「国家経済」というおもての経済があり、うら側に、超国家集団、組織による実質経済がある……。権力、領土をもつ国家とちがい、民族のもろもろの要素は経済のグローバル化に簡単に侵略されうるし、実際に、されてもいる。民族性と言語はそのあきらかな例だろう。国家の権力や強制力の支えがとりさられたとき、民族性、言語といったものの無力さはあきらかである。」
・経済のグローバル化が飛躍的に進むにつれ、「政府を買収する」必要性はほとんどなくなった。みずからが操れる資源や資産で(つまり、どんな使い方がされようが、みずからの司法権をおよぼすことのできる資源や資産)、経済を順調に運営できない無能な政府は、「多国籍企業」の軍門にくだり、多国籍企業に協力せざるをえなくなる。
・ルネ・ジラールは数々の挑発的な研究を通して(『世のはじめから隠されていること』、『暴力と聖なるもの』)、共同体における暴力の役割を包括的に理論化している。暴力的欲動は平和的、友好的な協調のおだやかな仮面の下で、ふつふつと煮えたぎっている。暴力がゆるされない共同体を、静謐の島として独立させるには、暴力的欲動は共同体の境界外へ向けられねばならない。共同体的統一性の偽善を暴露することもあるが、暴力は共同体の外に向けられることによって、防御兵器として再利用される。 再利用された暴力は、共同体に不可欠なものである。暴力はいけにえの儀式というかたちで、ふたたび、おお やけの場にもどる一方、 いけにえの犠牲者は、明確ではないが、厳格な規則にしたがって抽出される。「供儀の効用には、共通の基準がある。」 共通の基準とは、「軋轢、競争、嫉妬、不和といった、いけにえの儀式によって払拭されるべき共同体の内的暴力である。供犠の目的は共同体の調和の回復、社会組織の強化にある。」
・いけにえを捧げることで共同体を結束させる。自分も生贄にされてしまう恐怖を植え付ける。

クローク型共同体

パンとサーカス、見世物、カーニヴァル=欲求不満のガス抜き
・形式上の個人と事実上の個人の間の遠い隔たり
・クローク型/カーニヴァル型共同体は、「ほんとうの」(包括的、永続的という意味で)共同体の姿をまね、ほんとうの共同体をゼロからつくると(誤解をまねきかねない)約束をしながら、実際には、そうした共同体の形成を妨害する。クローク型/カーニヴァル型共同体は、社会性をもとめる衝動の未開発のエネルギーを集約するのでなく、拡散し、そして、まれな集団的協調、協力に、必死に、しかし、空しく救いをもとめる人間の孤独を永久化する
・形式上の個人を待つ運命と、事実上の個人の運命のあいだの渡りきれない、あるいは、渡りきれるとはとうてい思えない割れ目から生じた苦痛を、鎮静してくれるどころか、クローク型/カーニヴァル型共同体は、流体的近代に特有の社会的混乱の病理学的兆候に、そして、その要因にさえなっているのである。

訳者あとがき 森田典正

・ド・トクヴィルマルクスエンゲルスマックス・ウェーバーアドルノらが「モダニティ」の分析者、解釈者であったとするなら、バウマンは「ポストモダニティ」の分析者、解釈者だといえる。
・バウマンにとってポストモダンとはなにか。近代的経済構造が変化したとき、それを支え、それに支えられてきたさまざまな組織や仕組みは崩壊した。崩壊によって生まれた空白には、あらたな組織、仕組み、現象がはいりこんだ。ポストモダンとは、こうした組織、仕組み、現象の総体のことである。
・利益追求を究極の目的とする近代資本主義は、民族国家体制や官僚制とともに、20世紀後半、すさまじい発展をとげた。国家は資本の成長・拡大を必要とした。逆に、資本は成長・拡大に、国家による抑圧、秩序維持、教育、社会福祉を必要とした。国家は国民を法と秩序に服従させ、有能な労働者を育成すべく国民に教育をほどこし、健康で優良な働き手を確保するため、社会福祉を拡充させることができたからである。こうした近代のメカニズムを、バウマンはしばしば、ガーデニングに喩え。ミシェル・フーコーが近代社会の象徴として使った、ジェレミーベンサムパノプティコンに言及しながら説明する。ガーデニングとは設計図により造園を計画し、草花の種を蒔き、木を移植し、水をあたえ、肥料を施し、雑草をとりのぞき、枝を剪定して管理することだが、これは国家の、秩序と国民管理の比喩ともなりうる。同様に、多数の人間のあらゆる言動が、監視者により中央集権的に厳しく監視され、あらゆる不規則性と逸脱が厳格に矯正される空間の青写真がパノプティコンであるが、これも国家管理の比喩となりうる。
・経済の国際化、多国籍化、グローバル化と、生産・貿易・金融の自由化、規制緩和・撤廃は資本と国家、資本と政治の関係を一変させた。ポスト近代において、資本は国家の近代的機能を必要としなくなる。つまり、経済活動への介入を欲しなくなる。資本は国家や地域にたいして、運営や労働力の管理でなく管理の撤廃を、市場、経営の規制でなく、その緩和を求める。資本は国家とは関係なく、もっとも有利な条件を提供する地域をもとめて世界中を回遊するから、国家は資本をつなぎとめ、投資と雇用と税収を確保するために、資本のいうなりにならざるをえない。こうして、経済の政治にたいする優位性が確立し、その結果として、政治の経済化と、経済の政治化がおこった。これら一連の変化は80年代、英米を中心に顕著となる。マーガレット・サッチャーロナルド・レーガンは小さな政府を唱え、減税と歳出の削減、徹底した自由化、規制緩和、民営化を断行した。社会関係のなかで、国家は前景から後景へ退いていった。そして、国家の後退は、政治の後退でもあった。
・雇用の流動化
フロイトの「文明と不快」に由来する題名がつけられた、『ポストモダンと不快』におけるバウマンの中心的主張はこうだ。人類文明の獲得にさいして、多くの代償を支払ったように、現代人はポストモダンによってもたらされた、自由、解放、選択肢の増大といった恩恵にたいし、不安、不確実性、危険といった多大な代償を支払わなければならない。
・バウマンの経歴、ワルシャワ大学をユダヤ人差別により解雇される。
★バウマンの70年代、80年代の業績には、90年代のポストモダン論を読み解く鍵が隠されている。リーズ時代の著作をとおして感得できるのは、モダニスト的精神である。モダニストの精神とは、ひとつにはつぎのようなことだろう。よき社会、幸福な社会とは、綿密な計画と、理性的管理と、理想的運営によって形成された産業社会のことだ、という強い信念。また、真の道徳的衝動は、人間同士の連帯のなかにのみ存在するという信念。モダニストの精神は啓蒙主義自由主義ヒューマニズムにさかのぼり、資本主義をへて、社会主義にうけつがれる。バウマンにとって、この精神を、たんなる試みでとどまったとしても、ほぼ完全なかたちで実践に移そうとしたのが、社会主義であった。社会主義の実験は失敗に終わったかもしれない。また、社会主義の崩壊は近代の終焉となるかもしれない。しかし、社会主義のなかでほぼ理想的なかたちで体現されかけた近代的精神は死んだわけでなく、バウマンによれば、ゾンビーのように蘇生を待っているのである。
・イギリスノーフォークと中野の自宅で翻訳
4/13読了
 
◆要約:ソリッド・モダニティからリキッド・モダニティに移行した。
ソリッド・モダニティの時代は国家が強く、資本も地に根をはっていたため、終身雇用が多く、長く同じ土地に留まるのだからいい街を、いい社会を作ろうという理想がまだあった。まだ市民の理想があった。
通信技術、金融技術の発達、グローバル化により、グローバル資本の方が国家より強くなり、国家はその言いなりになった。
グローバル資本はその土地には責任を持たず、利潤が減ってきたら撤退するだけなので、堅苦しい倫理などは邪魔なだけ。非正規雇用が増えまくり、市民は寄る辺なき個人に分断され、頼れる仲間や目指すべき理念もないまま、消費と大衆文化の刺激で心の不安を一時的に埋めるだけ。
公共空間も解体され、形だけの居心地の悪い市役所のような公共空間かショッピングモールばかり。
本当の共同体を作ることを妨害する、偽の共同体に私達は住んでいて、孤独は永久化される。
◆感想:とても面白かった。
ウルリッヒ・ベックの個人化論を読んでいたので、理解がより深まった。
ソリッド・モダニティにも欠点はある。そこに付け込まれた。「もっと自由の方がいいでしょ」と。そして歯止めが効かず、最悪になってしまった。
はっきり言って今、国際資本の悪行が行き過ぎているので、振り子の揺り戻し的に国家(或いは市民社会)を再強化して、国際資本の再規制をするしかない。
リキッド・モダニティが行き過ぎているので、ソリッド方向に半分戻すしかない。
国民が個人化してなくしてしまった市民性=公共心を取り戻させることは出来るのか?
最近の欧州のデモを見るとあちらでは萌芽がある。
日本人は馬鹿すぎて無理。滅亡を待つだけ。
と突き放しても悪いので、自分の出来ることを根気強くやるだけ。