マラカスがもし喋ったら

読書メモ、講演メモ中心の自分用記録。

「作品#04 続・哲学用語図鑑トレーディングカード」紹介③大陸哲学8枚 #25-32

目次

 

25.アンリ=ルイ・ベルクソン

イマージュ

デカルトは心と物質は、はっきりと分かれて存在していると考えました。これを物心 (心身) 二元論といいます。
一方、ベルクソンはそうは考えません。私たちは好きな食べ物を見たら「おいしそう」と思いますし、子供の頃遊んだおもちゃに触れたら「懐かしい」と感じます。物質(物)と心は感情や記憶でつながっています。
ベルクソンは、私が見た (知覚した) 物とそれに対する私の意識の2つ1組をイマージュと呼びました。そして世界は私のイマージュと他者のイマージュだけで成り立っていると考えました。
ベルクソンにとって世界は単純な物質ではありません。かといって心の中だけにあるわけでもありません。彼にとって世界とはイマージュの総体です。彼は物質と精神といった単純な二元論で世界を捉えませんでした。

純粋持続

私たちは一般的に、時間を以下のように捉えます。
物 (針) の移動 量の変化 形の変化 数値の変化
ベルクソンは、これらを時間とは考えません。これらはどれも時間ではなく、空間上の物質の移動や、量や数値の変化です。時間とは、このような物質の移動や変化ではなく、「アイスクリームが見える」→「食べたい」→「甘い」→「懐かしい」→「幸せ!」というように、意識の中に感情や記憶が絶え間なくあらわれることで持続する、質的変化のことなのです。ベルクソンはこうした時間の性質を純粋持続と呼びました。
時間は物質のように観察することも外側から見ることもできません。ベルクソンは、世界のあり方を物質の数や量としてだけ捉える物理的な見方に異を唱え、純粋持続という考えを対置したのです。

エラン・ヴィタール(生の躍動)

ダーウィンの進化論によれば、環境に適した個体は生き残り、適さない個体は淘汰されます。けれどもベルクソンは、生命の進化をこのような自然淘汰では捉えませんでした。
ベルクソンは進化を外側からではなく生命の内面から考えます。生命に内在する「よりよく生きたい」というエネルギーが、それまでの方法では環境に適合できなくなったとき、エラン・ヴィタール (生の躍動) という爆発を起こし、予測不可能な新種を生むと彼は言います (創造的進化)。生命は、内在しているエネルギーが現実化することで進化するのです。
ベルクソンによれば、原始から存在するエネルギーはエラン・ヴィタールを繰り返し、今に至りました。よりよく生きるために知性を進化させたのが人間で、本能を進化させたのが人間以外の動物です。そして、動物の本能を人間の知性で意識化したものが直観です。この直観を使えば、カントが到達不可能とした物自体をも捉えることができると彼は主張します。

26.ヴァルター・ベンヤミン

アウラ

芸術作品を写真に撮ったり、印刷したりした複製物は、それがどれほど精巧に作られていても唯一無二の本物ではありえません。「今」「ここに」しかない本物の作品に備わっている目に見えない力のことを、ベンヤミンアウラ (オーラ) と呼びました。
近年、芸術作品はますます技術的に複製されやすくなりましたけれども 実物が帯びている唯一性や歴史性などは複製物からは欠落しているのです。
映画や写真などの複製芸術の登場は、芸術の概念を「崇高」で「貴重」なものから「身近」で「気軽」なものへと変えました。ベンヤミンは、複製技術の進歩によるアウラの凋落を嘆きます。しかし一方で、いくら権力が芸術、表現、情報などを管理、規制したとしても、複製技術の進歩は芸術や表現を権力から解放するとベンヤミンは考えました。

パサージュ論

『パサージュ論』の企図は、資本主義的な生産様式によって支配された19世紀における商品や生産物の具体的な現象形態そのものにおいてすでに、経済的な過程が表現されていることを明らかにし、さらにはそこに大衆の実現されなかった願望を読みとることに存する。このような19世紀的な事物が現象する場として特権的であるとベンヤミンにみなされるのが、パリのパサージュである。パサージュは、19世紀的な事物の範例としての商品がまさに集積する場であり、そこにおいて商品は人々を眩惑する輝き(仮象)とともに現れる。この意味において、パサージュはファンタスマゴリー(幻像とも訳される。ベンヤミンにおいては19世紀的な事物が現象する形式、さらには現象する事物そのものをも指す)である。
ベンヤミンが見いだそうとしたのは、19世紀が夢見た夢からの目覚めである。パサージュに代表される資本主義の初期の生産物がまさに朽ち果て、古びていく20世紀初頭という危機の時代は、ベンヤミンにとって資本主義からの目覚めとしての革命のチャンスだった。(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

27.ジョルジュ・バタイユ

消尽(蕩尽)

メモ:近代の生産優位は、消尽を「呪われた部分」として無視してきた。そこで生じた余剰は戦争という形で消費されたとバタイユは指摘している
近代社会にとっての価値とは、「何かを生み出すこと」です。理性・進歩・労働・創造・誕生などに価値があるとされる理由は、そこに生産性があるからです。
けれども人間はときに、生産した物の破壊に快楽を見いだします。たとえば、せっかく作った作品を壊したり、散財したりする行為です。また、過剰に豪華な製品に対する消費、快楽のみを目的とした性行為、遊戯、芸術、嗜好品などにも生産性はありません。
インディアンの社会にはポトラッチという自分の資産を破壊してまでも相手を歓迎するお祭りがあります。また、我を忘れて踊り狂うお祭りなど、生産性の観点から説明のつかない行為が世界にはいくつもあります。
ポトラッチのように、自分の持っている力や資源を使い尽くす行為のことをバタイユ消尽 (蕩尽) と呼びます。人間は、生産を基準に生きているのではなく、むしろ非生産的で刹那的な消費を求めて生きているのだとバタイユは言います。人間にとって生産とは、消費という目的のための手段にすぎないのです。にもかかわらず近代社会は生産に価値を置き、人々に生産を強要します。近代社会は人々を抑圧し続けているのだとバタイユは考えます。

エロティシズム

バタイユは、人間は不連続な存在だと考えます。人は他者とも切り離され ていますし、永遠に生きることもできないからです。けれども人はによって他者や世界と一体となり、何かしら永遠なものになって連続性を手に入れることができます。その連続性を感じるために、人は潜在意識の中で死に憧れているのです。
バタイユは死によって得られる連続性を性的な絶頂に達したときに体感できるとします。
他者を求めて性的絶頂に達したとき、思考は止まります。これは個人の死を意味します。この死の疑似体験によって人は、自分と他者と世界が1つに融合する場所に行くことができ、連続性を手に入れるのです。そこに到達するまで生を謳歌することを彼はエロティシズムと呼びました。
動物と違って人間の性行為には様々な禁止があります。バタイユはこのタブーの侵犯こそがエロティシズムの本質だと言います。あたかも消尽という目的のために過剰な物を作り出すように、人はそれを脱ぐときの快楽のために美しい服をまとい、それを犯すときの快楽のために秩序や道徳で普段の自分を取り繕っているのだと彼は考えました。

28.ハンス・ゲオルク・ガダマー

地平

文献に書かれている以上のことを著者の気持ちになって読み解く学問を解釈学といいます。ガダマーは解釈学を他者を理解する学問として捉えました。
本来、解釈学の目的は、過去に書かれた文章から、著者の主張を読み取ることです。けれどもガダマーはそれだけで終わってしまったら意味がないと言います。解釈学にとって大切なのは、今の私 (解釈する側) が過去の文章 (解釈される側) と「対話」することで、過去の文章を今の私に活かすことなのです。
ガダマーは「対話」をするための前提となる先入観を地平と呼びます。普通、先入観は捨て去るべきものとされますが、ガダマーによれば、先入観がなければ他者と真の対話はできません。育った環境も文化も自分とはまったく違う他者の地平 (先入観) を理解しようとする試みが真の対話なのです。
ガダマーは真の対話によって他者の地平が理解できれば、地平融合が起こり、自分の地平が広がると考えます。真の問いは「日本の首都は?」などと違い、あらかじめ答えを持っていません。けれども地平を少しずつでも広げていかなければ、地平 (先入観) は単なる偏見で終わってしまいます。

29.ジャック・ラカン

鏡像段階

フロイト精神分析(自我)を構造主義的に捉え直したのがラカンです。彼によると、乳児には空腹や尿意や心地よさなどのバラバラな感覚だけしかなく、それらを「私」として統一的に捉えてはいません。この段階を寸断された身体といいます。
6ヵ月くらい経つと幼児は鏡に映った像を見て、それが私の身体だと認識します。ここではじめて人は自分のイメージを統一的に把握します。これを鏡像段階といいます。
けれども鏡に映っている私の身体は、私の内部ではなく外部に存在しています。人は私という観念を自分の中からではなく、世界にあらかじめ存在していた鏡という外部から獲得したわけです。
そもそも私という観念でさえ、外部から獲得したのですから、当然その後の人間形成も、自分の内部ではなく、外部の世界に左右されることになります。

想像界象徴界

メモ:ラカンの「象徴界想像界現実界」という3区分は、フロイトの「超自我/自我/エス」を念頭に構想されている。
生後6ヵ月の鏡像段階の乳児は、鏡に映った自分を見てはじめて「私」という統一的なイメージを持つのだとラカンは考えました。この時期の乳児にとって、自分の中にある自分のイメージと、現実の自分は同じです。また、自分の中にある母のイメージと現実の母も同じだとラカンは考えます。
社会の象徴としての父が存在せず、言語も必要なく、秩序もない、乳児が見るまま感じるままの世界をラカン想像界と呼びます。
けれども幼児は2歳くらいになると、母の関心は自分だけでなく、父や他のことにも向けられていることに気づきます。
社会の象徴である父の存在に気づいたとき、社会によって作られた言語という秩序や、守らなくてはいけない規則 (大文字の他者) というものが、世界にはあらかじめあるのだと幼児は知ります。ここで幼児は、世界は自分の思い通りにはならないことを思い知るのです。
その後の幼児の自我は、言語による秩序を受け入れることで形成されていきます。この言語による秩序が支配する世界をラカン象徴界と呼びます。生後6ヵ月の乳児が出会った想像界は、じつは背後にある象徴界に支配されていたのです。

現実界

鏡像段階の乳児が知る世界を想像界ラカンは呼びました。乳児はその後、想像界は言語と規則の世界である象徴界に支配されていることを知ります。そして象徴界の規則を受け入れる形で、幼児の自我は形成されていきます。
私の自我は私が主体的に作るのではなく、世界にあらかじめ存在していた他者や言語などの構造に作られるとラカンは考えます。この考えは、自我は自分自身で作るとするサルトルなどの実存主義とは大きく異なります。
ラカンは、想像界象徴界の他にもう1つ現実界という存在があると言います。現実界とは、私たちが住んでいるこの現実社会という意味ではありません。それは言語やイメージといったフィルターを取り払った領域のことです。通常、現実界に人は到達できませんが、幻覚や芸術に現実界はあらわれることがあるとラカンは考えます。
ラカン象徴界想像界現実界という考えは、政治思想や文化批評など、さまざまな分野で活用されています。

30.テオドール・アドルノ

否定弁証法

どうしてユダヤ人のホロコースト(大虐殺)が起きてしまったのか?この問題の解明を生涯のテーマとしたのがホクルハイマー、フロム、ベンヤミン、そしてアドルノなどのフランクフルト学派の思想家たちです。
アドルノは、ホロコーストに至った原因を当時ドイツの思想を支配していたヘーゲル弁証法的な発想に見て取りました。弁証法は異なった2つの考えを統一し、より高度な考えを生み出す方法です。
弁証法を続けていくと、最終的に真理に到達するとヘーゲルは考えました。けれどもアドルノにとって弁証法は、多様な考えを否定する思考の同一化にほかなりません。そして人々の思考が同一化された社会こそがナチスの狙いなのだとアドルノは考えました。個人はむしろ一般への解消を拒み、独自性を保つべきだと彼は言います。全体の中に埋もれることなく非同一性をすくいあげる重要性をアドルノ否定弁証法という言葉に込めました。
弁証法を続けていくと最終的にみんな同じ考えになる=ナチズムが理想とした社会差異は差異のままでいい

31.ロラン・バルト

エクリチュール

ある集団で使われている特徴的な言葉遣いをバルトはエクリチュールと呼びました。たとえば、「ごきげんよう」という挨拶は、上流階級のエクリチュール(言葉遣い)といえるでしょう。日本語や英語といった母国語は自分で選択することはできませんが、私たちは様々な集団のエクリチュー ルを自分の意志で選び取ることができます。
そして、ひとたび「ごきげんよう」という挨拶をして、上流階級のエクリチュールを選び取ると、彼女の言葉遣いはすべて「上流」に変化していきます。やがて身なりや生活スタイルにも影響し始めます。
ある特定のエクリチュールを選択することは、その集団の思想を受け入れることにほかなりません。バルトは、特定のエクリチュールだと気づかずに、それを使用する危険性を指摘します。たとえば、「正しい」とされている言葉遣いは、じつは男性という集団のエクリチュールである場合が多いのです。
バルトはエクリチュールをまったく含まない表現を零度のエクリチュールと呼んで強く憧れました。たとえるなら、出来事だけを冷静に伝えるジャーナリストの文章です。
けれどもいくら中立なジャーナリストの文章であっても、やはり思想は入ってしまいます。「木が倒れている」という出来事の描写は「戦争の壮絶さ」の記号になってしまうからです。零度のエクリチュールを探し求めたバルトは、日本の俳句の中にそれを発見しました。そこには特定の集団の思想はなく、純粋に出来事のみが表現されていました。

神話作用

バルトによれば、大昔の人も、現代の人も、神話の世界の住人です。彼はパンザーニ社のパスタの広告写真を例にとってこれを説明します。
パンザーニ社の広告写真には、パスタのパッケージとともにトマトなどの野菜がネットから溢れ出ている様子が写っています。ここでの野菜は純粋に野菜を意味しているわけではありません。野菜は「新鮮さ」、赤・緑・白の色は「イタリア性」を意味する記号になっています。私たちは何を見ても、純粋にそのもの(デノテーション)ではなく、何かしらの記号としての意味 (コノテーション) で捉えてしまうのです。
パンザーニ社の広告写真のトマトは 2つの意味を持つ
デノテーション (外示)=トマトそのもの
コノテーション (共示)=イタリア性、新鮮さなど、記号としての意味
他の例
[デノテーション] ハト [コノテーション] 平和、自由
[デノテーション] 太陽 [コノテーション] 希望、エネルギー
[デノテーション] 自然 [コノテーション] 大切な資源
[デノテーション] 摩天楼 [コノテーション] 文明、人間模様
[デノテーション] 森 [コノテーション] リラックス、 エコロジー
[デノテーション] 七三分け [コノテーション] まじめ
[デノテーション] 長い髪 [コノテーション] 女性らしさ
[デノテーション] スーツ [コノテーション] 社会人
[デノテーション] ブランド [コノテーション] セレブ、おしゃれ
昔の人は、太陽を神として捉えるなど、神話の世界に生きていました。同じように現代人も、太陽をエネルギーと捉えるなど、その物が持っている別の意味の世界に生きています。バルトは記号でできた現代の世界を社会的神話の世界と呼びます。あらゆる物には神話作用があるとするこうした考えは、大衆文化の中に隠れた記号を読み取るカルチュラルスタディー(大衆文化研究)にも大きな影響を与えました。

作者の死

構造主義では、主体は、社会構造に規定されていると考えます。近代は、個人を自律的に行動する主体と考えてきましたが、構造主義は、個人の物の見方や考え方は、時代や地域、文化によって深く規定されていることを明らかにしたのです。
文学作品でも、同じことがいえます。バルトは、「作品の真理を知っている」という作者の特権性を否定しました。
バルトは作品のことをテキストと呼びます。テキストとは織物(テキスタイル)という意味です。テキストは、様々なエクリチュールが織りなすコラージュであり、テキストには作者のオリジナリティはないのです。よって、バルトにとって、作者はテキストに一番近い存在ですらありませんでした。彼はテキストと作者を完全に切り離して考察します。
バルトにとって作者は死んでいるも同然です(作者の死)。生きているのは私たち読者です(読者の誕生)。テキストを読むとき、読者は作者の言いたいことを考える必要はまったくありません。テキストは作者の支配から離れているからです。
テキストを読む行為とは、作者が出す問題に一つ一つ答えていくような受動的行為ではありません。もっと自由で創造的な能動的行為だといえます。

32.ルイ・アルチュセール

認識論的切断

アルチュセールマルクスの思想を読み解くことで、人間の思考は連続的に深められていくのではなく、あるとき急に進化することを突き止めました。
アルチュセールによると、前期のマルクスは、労働者が資本家に搾取され、疎外されている問題をヒューマニズムの観点から見ていました(労働の疎外)。けれどもある時期からこの問題を資本主義の原理的な問題として科学的に捉えるようなります(上部構造/下部構造)。
労働者個人の問題を追究していった結果、資本主義の構造的な問題がマル クスの頭の中に生まれたのです。ある問題が、新しい高次元の問題を生むことをアルチュセール認識論的切断と呼びます。
クーンはパラダイムシフトによって断続的に科学史は変化すると言いました。アルチュセールは、個人の頭の中でこれと同じ変化が起きると考えたのです。高度な発想は、突然やってきます。そのためには、1つの問題を考え続ける粘り強さが重要です。

重層的決定

ヘーゲルは歴史が変化する原因を人類が自由を求める精神だと考えました。また、マルクスは歴史が変化する原因を経済構造の矛盾だと考えました。彼らは、歴史や社会の変化を科学の原理のように単一の因果関係で捉えていました。
一方、アルチュセールは歴史や社会の変化は単一の原因からではなく、経済、政治、技術、文化などが複雑に絡み合いながら起きると考えました。
歴史の変化や社会のあり方に1つの原因を想定することはできません。それは複雑な構造の中で多元的に決定されるのです。これを重層的決定といいます。
重層的決定・・・歴史の変化や社会のあり方は多元的に決定される
印刷技術の進歩、コレラ(病気)の流行、貧困、王室の財政難、啓蒙思想家の活躍、政治政策の失敗→フランス革命

国家のイデオロギー装置

文献:アルチュセール『再生産について』
メモ:国家装置は「抑圧装置」(軍隊、警察など)と「イデオロギー装置」(学校、宗教、情報など)からなる
サルトルは、自分の本質は自分の意志で作るものだと言いました。そして自分の本質は社会に主体的に参加することで実現できるとしました。
けれどもアルチュセールは、個人の思想や信条 (イデオロギー) は、学校、メディア、企業などのシステムによって、国家に適したように作り出されると考えます。国家のこのような構造を彼は国家のイデオロギー装置と呼びます。国家のイデオロギー装置で作られた主体は、無意識に、みずから進んで国家に服従し、今度はイデオロギーを作る側にまわるのです。
レヴィストロース、ラカン、バルト、そしてアルチュセールなどの思想は構造主義といわれています。人間に主体性はなく、人間は無意識的に社会の構造に規定されると考えます。やがて、デリダドゥルーズなどのポスト構造主義の思想家たちが、構造の解体の方法や、構造からの脱出の方法を模索することになります。